80年代の名古屋に「アートシーン」はあったのか

大野 左紀子(文筆家)

3. A.S.G.という場

さて前後したが、81年に名古屋の中心部からやや離れた住宅街の中にオープンしたA.S.Gは、一階がギャラリースペース、二階が「がらん屋」という居酒屋となっている建物で、店主の蛍川詠子がオーナー、中村英樹が当初の2年間の企画をしていた場所である。
オーナーの意思で、作品を売買する商業画廊ではなく、展示に伴う諸経費はがらん屋の売り上げで賄い、若い作家が自由に実験的試みを行う場としたいということだった。室内外の空間に加え、搬入期間二週間、展示期間三週間半という、インスタレーション系の作家にとってはかなり魅力的な場であった。
がらん屋はその主旨に賛同する一般客(特に関心の高い常連客を「がらん屋有志の人々」と呼ぶ)や、建築、演劇関係の人などが集まる特異な空間となっていた。

オープンの81年から82年にかけて、東京からは川俣正、保科豊己、千崎千恵夫、竹田康宏、三宅康郎、田中睦治など芸大油画出身の若い作家たち、名古屋は、庄司達、今井瑾郎、今井由緒子、金田正司、沢居曜子、真島直子など、やはり空間的スケールのある作品を作る若手から中堅作家たちが個展をしている。
まだ私は東京にいた頃なのでそのすべてを見たわけではないが、名古屋の中ではかなり異質な場だったと思う。帰郷して一年、週に3~4日予備校で働き、残りの日は住まい兼アトリエの小さな借家で制作をするという生活を始めた私は、83年の5月にA.S.G.で初めての個展を開催した。オープニングの夜は二階のがらん屋で、恒例になっている「夜話会」という作家と観客とのフリートークが行われた。

後で聞いた話だが、A.S.G.はオープンから2年を過ぎて、がらん屋の経済問題で一時存続が困難になっていた。この状態について、東京でパレルゴンIIを運営していた三宅康郎から「こちらにはやりたい作家がたくさんいるので企画を持ち込む」「会場維持費を除く展の直接経費を作家負担としては」という提案があり、それを受けて83年度は、名古屋の作家は庄司達、東京の作家は三宅康郎が推薦して年間企画を立てるというかたちになっていた。
この年度にA.S.G.で個展を開催した作家は、(順に)*大野左紀子(5.10~29)、青木一也(6.7~26)、*渡辺英司(7.5~24)、小林良寿(8.2~28)、岩崎元郎(9.6~25)、坪良一(10.4~23)、*磯部聡(11.1~27)、*大田龍男(12.6~25)、酒井信一(1.10~29)、蔵重範子(2.7~26)、田代睦三(3.6~25)。

運営母体が明確でない不安定さが常につきまとっていたが、普通の画廊とは異なる一般客(社会)との近さと空間の開放感に惹かれ、私はA.S.G.に積極的に関わるようになった。「満虚空」というフリーペーパー(「夜話会」の記録や展示寸評など)も不定期で発行し始めた。
また、毎月最終金曜の夜を、さまざまなジャンルの人ががらん屋に集まって語り合う日とした。特に、数年上の磯部聰、県芸の学部生だった横川耕介といった自分と近い年代の二人とは、名古屋の状況や美術や場のあり方についてよく議論をした。

4. 自主企画持続の困難

84年1月25日、今後のA.S.G.の運営について、磯部と大野の呼びかけでミーティングが開かれた。参加者は庄司達、今井瑾郎、三頭谷鷹司、大田龍男、横川耕介、磯部聡、大野。
「名古屋の中ではまだアピール度が低い」「客が少ない。特に美術系の若い人の関心が薄過ぎる(なぜか東京の人々の方が関心が高い)」という問題が指摘され、それに対して「運営主体や企画性が明確に見えないからでは」「ただ物理的自由度の高い空間というだけでなく、中心をもって方向性を打ち出していくことが必要では」という意見が出された。
だが誰も「自分が今後企画運営の中心となる」とは言わなかった。多忙な上の世代はもちろん、大学を出たばかりの私にとっても、それはあまりに荷が大きかった。

結局、84年度のスケジュールは有志作家による企画選考ではなく、自主企画の申し込みによって予定を立てることとなり、その実務面を私が引き受けることとなった。
84年度の自主企画で個展を行った作家は以下の通り。*関野敦(4.3~22)、佐々木悦弘(5.1~20)、菊池敏直(9.4~23)、*小島久弥(10.2~21)、奥野寛明(11.6~25)、丸山浩司(12.4~23)、天野豊久(1.8~27)、*横川耕介(2.5~24)、平戸貢児(3.5~24)。
この年の10月に再度経営危機問題が持ち上がり、がらん屋有志の人々の提案で一口五千円の基金を募ることとなり、名古屋、東京などから五十人の賛同基金を得た。

対外的には「有志作家による運営」を謳っていたが、その母体はやはりあまり明確ではなかった。つまり責任者がいなかった。そして依然として経営危機は改善されなかった。
私はがらん屋有志の人々の助けを得ながら実務を続けたが、自主企画はなかなか持ち込まれず(なので知り合いの作家に声をかけたり、自分でパフォーマンスの企画を打ったりした)、観客もあまり増えなかった。
ほとんど一人で書いているフリーペーパー、若い人々の反応の鈍さ、なんとなく遠巻きに見ている感じの名古屋の美術業界。それにしても、この人の少なさは何なんだろう‥‥。こうして、苛立ちと漠然とした孤独感を覚える中で次第に、現状に対する自分の無力さを噛み締めることとなった。

85年度の自主企画は、「IN THE SKY」(5.10~26/浜島嘉幸企画のパフォーマンス9days/参加者:浜島嘉幸、依田茂理予、金田正司、宇佐美知恵丸、磯部聡、中島智、落合竜家、大野左紀子)、渡辺英司(6.8~23)、近藤珠実(7.6~21)、「SUMMER TIME SHOW」(8.9~18/大野企画のパフォーマンス週間/参加者:ころばぬ先のつえ、西澤武、柳澤穣、真野和彦、石井晴夫、大野左紀子)、福島隆(10.5~20)、石原寿幸(10.26~11.10)、木野村竹夫(11.16~12.1)、宇野女宏平(12.7~22)。
良い展示や試みもあったが、A.S.Gの初期からすれば明らかに弛緩した、方向性の見えない状況だったと思う。
この年をもって私は実務から退き、個人的な事情も重なってこの場から徐々に足が遠のいた。A.S.G.はその後オーナーの死去まで十年ほどフリースペースとして維持された。



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