80年代の名古屋に「アートシーン」はあったのか

大野 左紀子(文筆家)

5. 大学の保守性と日グラの影響

なぜ名古屋の若い作家や地元の芸大、美大生たちが、あの場にあまり関心を持たなかったか、DM制作費だけはかかるとは言えここで自分たちの実験をやろうと思わなかったのか、今ならなんとなくわかる。
まずもともとスケールのあるインスタレーション作品展示の場として始まったので、絵画や彫刻が展示しづらいイメージがあったこと。東京の作家(というか東京芸大出身の作家)が多いという印象や、一般の観客と距離の近いがらん屋の独特な雰囲気が敬遠されたということもあるかもしれない。
さらに場所の問題。名古屋中心部の他の画廊からポツンと離れており、郊外にある県芸(学生、卒業生の多くが大学近くの長久手に住んでいる)、名芸からもかなり離れている。名造形だけは当時市内にあったがやや遠かった。

大学に関しては、距離的な遠さだけではない。県芸と名芸に顕著だったが、当時は団体展系の教官が多く学生が現代美術へと向かうのを好まない傾向があった。
この頃の県芸の卒業制作展は、洋画は国画会の島田省三、彫刻は新制作協会の作家の影響が色濃く現れている。名芸の洋画、彫刻は伝統的に日展系作家の影響力の元にあった。また、芸術学科がまだどこの大学にもなく、若いディレクターや批評家が育つ土壌もなかった。

80年代の終わり頃、県芸出身で20代の作家四、五人が、相次いでデュッセルドルフに留学している。奈良美智もその一人だ。彼らには地元での発表活動より、より自由度の高い教育機関、重しやしがらみのない環境で学び直したいという欲求があったのだと思う。
名造形は比較的リベラルな雰囲気があったようだが、いずれにしても名古屋は、現代美術を志向する人数そのものが、東京などと比べると圧倒的に少なかった。

もう一つの大きな要因として、この当時学生や若い作家の注目を集めていたのが、パルコ主催の「日本グラフィック大賞展」「日本オブジェ大賞展」であったこと。後者は地元から大賞受賞者が出たこともあり、強い関心を惹起していた。
大学の先生の所属する団体展に出す気はないが、レンタルギャラリーでコツコツ発表しながら企画の声がかかるのを待つのも、自分たちで自主企画を打っていくのも、お金と時間がかかって大変だと思っていた現代美術志向の若い層の少なくない部分を、あれらの公募展は吸収していたのではないか。
ちなみに名古屋周辺の若いアーティストたちがあちこちで自主管理・運営のスペースを立ち上げ出すのは、コマーシャルギャラリーが撤退していく90年代末からである。

6. 活性化と停滞

80年代前半の名古屋近辺の動きとしては、河合塾美術研究所が名駅校舎(後に千種校舎に移転)の中にギャラリーNAFを開設し、塾生展や講師の個展の他、戸谷成夫など県芸出身作家の個展を行った。83年6月には名古屋造形短大がDギャラリーを開設し、オープニングとして中村英樹企画「名古屋 八十年代の平面展」を開催した。
それとは別の動きとして84年の夏、有志の建築家、舞踏家、音楽家、美術家、陶芸家などが実行委員会を作り、名古屋港近くの鈴代倉庫で「WAYA祭1984」(WAYA=「わや」とは名古屋弁で「めちゃくちゃ」という意味)が開催され、20代の美術家たちも参加している。都市の規模が小さく各ジャンルの人々が交わりやすい名古屋ならではの、ある意味で画期的な催しだったが、美術に関して言えばやや発散的なところに留まった感は否めない。

80年代後半になると空気が変わってくる。まず作家個人の動向としては、名古屋芸大出身の若い画家、吉本作治がアキライケダギャラリーに見出されたのをきっかけに、ニューヨークの大手ギャラリーで個展を開催するという華々しさで注目を集めた。
86年にギャラリーたかぎのオーナーが所有していた広大な敷地と建物を利用したICA名古屋というアートセンターがオープンし、国際交流基金勤務(当時)の南條史生がディレクターとして迎えられ、マリオ・メルツ、ボルタンスキーなど海外有名作家の展覧会が開催され、名古屋以外からも人を集めるようになる。
一方、87年から88年にかけて、名古屋市文化振興事業団の主催で、名古屋の若い作家をセレクトした三つの現代美術展が開催された。茂登山清文企画「現代美術の世界像(コスモロジー)」(87.3.14~29、ICA)、三頭谷鷹司企画「現代美術・名古屋1988『深層の森』」(88.3.16~27、名古屋市博物館)、複数の作家と事業団の合同主催(企画準備会:久野利弘、酒井宣、庄司達、平岡博)の「都市空間と木の造形展」(88.9.30~11.3、名古屋市美術館、若宮大通公園)。
88年は名古屋市美術館がオープンし、現代美術を扱う画廊が増え、名古屋コンテンポラリーアートフェアが始まる。美術活動=商業ベースが当たり前という認識が、同世代の作家の間に広がったように感じた。

80年代の名古屋において、場をめぐる作家主体の動きとしてはギャラリーUとA.S.G.、展覧会としては「WAYA祭」、「都市空間と木の造形展」ということになるが、それらがなんらかのアートシーンを形成していたとはやはり言えないだろう。一時的には盛り上がるが次には繋がらないものだった。そこに批評的、思想的核のようなものが欠けていたからだと思う。
「言葉が足りない。どこに行っても美術業界の話ばかり。誰も美術について語らないのか」という鬱々とした思いを抱えつつ、私も画廊での個展が中心の活動へと移行していった。
コマーシャルギャラリー隆盛の94年、名古屋芸大で教えていた茂登山清文、美術家の丹羽誠次郎らと共に美術批評誌「Lady’s Slipper」創刊準備号を刊行するが、それはまた別の話である。

 


大野左紀子(おおの さきこ)……1959年名古屋市生まれ、東京藝術大学美術学部彫刻科卒業。2003年までアーティスト活動を行ったあと、文筆活動に入る。著書に『アーティスト症候群』(明治書院)、『アート・ヒステリー』(河出書房新社)などがある。



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