作品によせて [10]

水留 周二(参加アーティスト)

■沈黙の臓器

人が沈黙に出会うのはどのような時だろう。
一人花をめでる時。しかし心の中で “美しい” と呟くその時、そこには既に沈黙はない。言葉の力の支配である。“黙とう” の瞬間立ち現れるのは、一人一人の無心の祈りであり、あるいは脳裏に浮かぶ様々なイメージとの対話、そして辺りの音である。ジョン・ケージは沈黙を実現し得たのであろうか。芭蕉は五・七・五のトライアングルに沈黙を作りだした。岩に染み入る音は、沈黙の時空なくしてはあり得ない。芭蕉の数多くの俳句は沈黙の為の建物であり、同時に、三つ言葉を柱とするその建築空間は、沈黙を地平として時を紡ぐ。

私は今回、素材として言葉を選んだ。それも沈黙のイメージとは、逆ベクトルでハイトーンの形容詞と欲望の言葉、それに命令の言葉を拾い上げた。次に、私が言葉を発するたびに、それにシンクロして、電球が輝くというシステムを用意した。光も音も同じエネルギーの現われ方の違いであり、変換可能なのである。私は、暗闇に生命の比喩としての林檎とビデオカメラ、それに前述の灯りのシステムをセットした。私が「ウツクシイ」と発声すると、二つ割の林檎の断面は、電球の光を反射して輝く。肉声のバイブレーションが画像に共振する。まるで林檎に言葉のイナズマが走るかのような様相である。言葉の唐突性は、厳しい現実に住まう不安定な精神にとって、いつも雷鳴である。おそらく、どんな人間も常に、そんな落雷の恐怖のなかで生きているのだろう。そんな脅える、孤独な現代を映し出すことが、今回の作品における最初の動機でありテーマとなった。
次に私は、林檎のかわりに紙筒を用意した。私が「キタナイ」と発声すると電球が紙筒の中で輝き、放電管と似た光を発する。紙筒の表面には、他者の言語である「dirty」が書かれていて、それが暗闇に浮かび上がる。この翻訳システムを作ることによって、人間が言葉を獲得する瞬間の原風景を描きたいと思った。起源を追体験することは、誰にとっても常に新鮮なことである。

飛行機の墜落事故を報道する中で、時折ボイスレコーダーの一部が公開再生されることがある。限界状況に発せられる言葉は、天空を切り裂く叫びである。私は霧の中の墜落現場で再生される、ボイスレコーダーをイメージしてインスタレーションした。まず、四隅のビデオシステムからスピーカーを摘出した。つまり映像と一体化した音声を切り取り、宙吊りにすることによって、言葉を断片化したのである。トレーシングペーパーを隔壁に、あちらこちらに配置した。スピーカーから発せられた言葉が、半透明な空間に反響する。
言葉が断片化される時、そこにはいつも過度な緊張がある。おそらく現代人のストレスの多くは、そうした言葉の断片による持続的なダメージによって蓄積される。本来有害なはずの放射線にガン細胞を破壊する力がある。私の映像は、刃物としての言葉をエネルギー源としている。その映像が、閉塞する精神の壁を破壊するパワーを秘めているかどうかは未確認であるが、私は中央に放射システムを作ることにした。四個のモニターからそれぞれ転送された映像が、中央のモニターに伏流して攪拌され、画面に湧出する。そこでは、四種の原像と、合流のパニックによる白黒モードの瞬間映像、それに干渉波としての歪む原色の帯が激しくチェイスする。画面を上に設置されたモニターが、滾々と湧き上がる泉の時間を刻む場となる。下から上へと重力に逆らって上昇する泉の運動は、あらゆる生命の生きる精神とリンクする。

デュシャンの「泉」はあまりにも有名であるが、イメージの支配と、思考の自由をテーマにした作品である。言うまでもなく、便器と泉では流れる方向が正反対である。つまり、便器は重力=支配の比喩であり、泉は湧く水=思考の自由の比喩である。その意味で、私の今回の現地制作が、泉の思考によるものかどうか問い続けなければならない。ただ、私の仕組んだ組織にもし解毒作用が見られるならば、それを一種の沈黙の臓器と言えないこともない。芭蕉が五・七・五のシステムで作りだした沈黙は、現代人にとって今なお、有効な肝機能を果たしている。

『3分間の沈黙のために……人─自然─テクノロジーの新たな対話』p.31-32

関連展覧会:
  • t12 日本・オランダ現代美術交流展 「3分間の沈黙のために……人・自然・テクノロジーの新たな対話」(東京)


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