作品によせて [8]

佐藤 時啓(参加アーティスト)

■『43の眼』
十思スクエアでのインスタレーション(什器をカメラにする)

小学校の教室だった場所。かつてたくさんの子供たちが走り回り、さまざまな授業が行われていた。自分自身の記憶とも重なり、歓声が耳鳴りのようにイメージの底から沸き上がってくる。展覧会のためにしつらえられた場ではない空間を作品の場と考えるのはとても難しい。だが反面、ニュートラルな空間ではありえない、“場の声” を聞くことが可能である。

空間にインスタレーションすることによって、場の持つ言葉を呼び出そうとすること。それが場を使い表現することの根本的な意味である。しかし、最初の現場下見の時、がらーんとした、かつての教室であったという属性をぎりぎりまで解体してしまった状態を見た時には少々頭をかかえた。この空間の特質は何だろうか? と自問する。ぎりぎり、言葉を投げ返してくるのは、アーチ型の窓だった。その窓のアーチを内部に映し出す装置を作ろうと。しかも、この場にあったゲタ箱やロッカーなど、かつての生徒達の存在の気配がする什器をつかって。

かつてゲタ箱やロッカーは部屋の片隅に置かれ、生徒達や学校の日常の外側に存在していた。今回はそれを真ん中に置き、それ自体を眺め、さらにその躯体を知覚器官として読み替えて教室を眺めてみようと考えた。5年前に旧赤坂小学校で行われた展覧会の時には、場との関わりとして、私は、私自身の光によるドローイングをカメラによって記録し、一枚のイメージとしてとらえる作品をつくった。そして、現場の窓の光による透過光によって作品を見せた。サイトスペシフィックな作品だが、今回は、私の作品制作というよりは、より場の言葉を聞き取る作業をしてみようと思った。

ゲタ箱や、スチールロッカーの一つ一つの部屋、あるいは箱部分は、蓋を閉じてしまえば真っ暗な闇を抱えた空間になる。その闇は、光を受け入れるための負の状態といえるだろうか。一方に小さな穴を穿てば、光は吸いとられるように侵入し、他方の壁面に倒立した映像を形づくる。この状態はピンホールカメラの原理として、多くの人が知識として知ってはいる。しかし果たして、実際に映像を体験したことがあるだろうか? ピンホールの光は極少だから、身体の感度を最大限にしなければ感応することができない。私はもう少し穴を大きくしてみる。飛躍的に明るさは増し、眼と同じように見ることが可能になる。実際には30mmの穴を開け、焦点距離300mm前後のレンズをとりつけた。そして教室や外の眺めが闇の中に焦点を結ぶように制作した。

理屈として、また、状況としてはこれだけのものである。しかし、この映像の凄いところは、電気的な装置を何も用いないで完ぺきな映像を形作ることだろう。当たり前ながら、見ないことには実感できない。いまだに魔術は存在する。と私は確信している。

私は、この魔術を他者との接点として大事にしてみようと考えている。果たして同じものが見えているのだろうか。私が作る、あるいは、私が仕掛ける装置を体験することを通じて得られるものを、何らかの共通点としてとらえることはできないだろうか。いまは、そこのところを考えている。

『3分間の沈黙のために……人─自然─テクノロジーの新たな対話』p.29-30

関連展覧会:
  • t12 日本・オランダ現代美術交流展 「3分間の沈黙のために……人・自然・テクノロジーの新たな対話」(東京)


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