作品によせて [6]

笹岡 敬(参加アーティスト:有地 左右一+笹岡 敬)

今回の作品「LUMINOUS 2001」は、1992年から継続している切れかけの蛍光灯を再現するインスタレーションである。1995年に参加したオランダのアイントホーフェンでの「NowHere」(日本・オランダ現代美術交流展のオランダ展)では、同じく「LUMINOUS」シリーズを出品しているが、それは垣根状に配置した蛍光管を高周波で発光させるというもので、今回の作品とは違ったシステムであった。翌年、東京・旧赤坂小学校で開催された「根の回復として用意された12の環境」(同展・日本展)での展示環境も同様であるが(このときの作品は「REFLEX」シリーズで「LUMINOUS」の出品はしていない)、今回の作品は元小学校の教室という特殊な空間に設置することで、いかにその場が持つ歴史や記憶に関与できるかということが問題となる。

作品は、実際に使われていた、天井につり下げられている蛍光灯を変圧することで死にかけの状態にするというものだ。作品としてはシンプルこの上なく、どこに作品があるのかと聞く人もいたという。ここ数年の「有地+笹岡」あるいは私の作品は単純化が進んでおり、還元主義とも誤解されうる表現に変化してきている。しかしこれは、あらゆる経験に於ける差異や場の個別性あるいは特殊性、時間の個別性を中心的問題として領域を設定することによって、我々の作品に接するという特殊性が関係的で不完全であり、進行中のものであるという経験を示すことを目的としている。

そもそも我々が「経験に意味を与える」やりかたは、単なる経験によって生産されるわけでなく、たとえば学校、家族、職場、裁判所、街路といったような様々な実践によって定着化されるものであり、今回の展覧会の場となった元小学校も、もちろんそのことに関与してきたのである。この場は現在、小学校という機能を地域社会の発展や衰弱によって別の目的に置き換えられた場所であるとはいえ、「経験に意味を与えるやりかた」自体は存続しており、精神指導的なテクノロジーとして現在も機能している。

テクノロジーが、知、道具、人、判断のシステム、建築や空間からなる寄せ集めによって構成されているものであるという認識から、学校もテクノロジーのひとつであると見なすことができるが、それは文化的な問題のみならず、ヒエラルキー的な観察や標準化、あるいは判断を人々に折り込む手段として存在している。これらはフーコーが規律・訓育的なものと名付けたテクノロジーであるが、そのテクノロジーを新たに別のテクノロジーによって異化させる試みは、テクノロジー的な領域において我々が自らにおいて支配されてきたというやり方を吟味するということで、それらの管理のあり方自体の批評を形成しようという試みである。

『3分間の沈黙のために……人─自然─テクノロジーの新たな対話』p.27

関連展覧会:
  • t12 日本・オランダ現代美術交流展 「3分間の沈黙のために……人・自然・テクノロジーの新たな対話」(東京)


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