作品によせて [2]

Anet van de Elzen アネット・ファン・デ・エルゼン(参加アーティスト)

2001年、日本、東京
東京の歌

日本への旅は、私の人生で極めて重要なものとなった。ボーイフレンドの Flavio Titolo は、1999年に亡くなってしまったが、「きっと君は日本でたくさんのことを学べるから、ぜひ行くといい」と、私によく言ったものだ。日本、特に東京は私に不思議な影響を与えた。何事にもまったく集中することができなかった。すべてのものが常に動いていた。そこには風が吹いていて、桜の樹木を揺らし、昼も夜も絶え間なくあらゆるものが動いていた。たとえそれが電車や地下鉄、バス、自動車、あるいは人々といったものでなかったとしても。この異文化のいくらかは理解していたつもりだったが、途方に暮れてしまった。おそらくまったく理解していなかったのだろう。
東京で、3分間の静寂を創りだす方法があるのか?

展示スペースに指定された教室は、やさしく人なつっこくて、強烈な雰囲気だった。光が美しかった。いくつかの窓を和紙でおおった時には特に。ただ、作品のためには、教室の典型的な木の床が好ましくなかった。東京の街路を歩きながら、そこここの道の片隅に、折りたたまれた空箱があるのを見つけた。台車を押して、男や女がその箱を毎日回収している。これらの箱で木の床の半分でも覆うことができたら、制作のためのスペースができるし、また、私が望んでいたように部屋を変えることもできる。
こうして、近くの寺から漂ってくる香のかおり、竹の杖、空の酒樽、小さな金の目覚まし時計、鈴、ブラック・スピリットと共に、この教室は私のパフォーマンスを準備する部屋となった。

伝統的な日本文化は、私の最も関心を引くものだ。私は桜の花について話を聞き、それに圧倒された。日本の歌を覚え、歌舞伎座へ行き、伝統的な日本の家屋を訪ねた。美しい笠をかぶった僧侶が街路に立つのを見た。私は古い日本のイメージを作ってみたかった。
最初のパフォーマンスで私は、肌色のドレスを着て(Danielle Klerkx がデザインしたものだ)、日本古式のかぶり笠で顔を隠した。まるで生きた彫刻のような状態で、7時間の無言のパフォーマンスを行った。その間、ドレス、仮面、かぶり物、そしていくつかの小道具を使って、4つの異なった状態を表現した。パフォーマンスの終わりの時間に、私は床に仰向けに横たわり、砂で顔を覆った。7時間にわたるパフォーマンスは、私を深い集中へといざない、私に短い歌を作らせた。オープニング・レセプションのあいだ、私は竹の杖に向かってそれを歌った。

次の1週間、私は毎日、2時間のパフォーマンスを行った。日々新たに集中し、新しい歌をつくった。
1週間後の日曜日、私は男の服に着替え、頭部を白い粘土で覆い(歌いだす前に粘土がはがれて事のほか大変だったのだが)、屋上で一曲のレクイエムと共に仕事を終えた。東京の真ん中の高い屋根の上、輝く太陽と強い風とともに、楽音は中空からやってきて、中空へと消えていった。

2001年8月28日
セルトゲンボッシュにて

『3分間の沈黙のために……人─自然─テクノロジーの新たな対話』p.22-23

関連展覧会:
  • t12 日本・オランダ現代美術交流展 「3分間の沈黙のために……人・自然・テクノロジーの新たな対話」(東京)


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