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『3分間の沈黙のために…:人─自然─テクノロジーの新たな対話』カタログ(2002) 所収■ビデオ作品「脳の公園」6分
そこではみんなとてもよく働く。家はとても小さい……。
男たちが車の中で眠っている。通勤時間があまりにも長いから。それで休息をとっているのだ。
東京に行ったことがある1人のヨーロッパ人旅行者の、こんな印象を聞いたことから、ビデオ作品「脳の公園」は制作された。ある状況を説明する仕方は、その人のものの見方によって決定される──これは興味をそそられる考え方だと気づいた。この仮説に従えば、誰もが違った仕方で同じ出来事を感じとることができる。
私の作品は常に、暗黙のルールや原理、価値観を持つある特定の社会のコミュニティとかかわりを持ってきた。写真や映像を撮影する場として公共的な空間を使うのは、そのような場において、屋外での人間の特徴的な行動を明らかにして見せるためである。異文化のなかで写真や映像を創造し見せることは、私の(全ての)作品に新しい問題を提起するのではないだろうか。
「脳の公園」は、文化的・歴史的プロセスの主なる在り処、その違いに関わる問いを投げかけている。 例えば私の作品に登場する女性の肉体は、日本では、文化的な観念や映像史の影響から、肉欲やセックスを連想するように認識されるかもしれない。そこでの私の疑問は、異文化という枠組みのために、私の作品について根本から異なった解釈が行われるのではないか、ということである。しかし、文化的背景という複雑な積み重ねのなかで、より深い洞察を得る方法を追求することは、議論とは無関係に、視覚芸術のものの見方によって立つものである。おそらくそれは、心理学や人類学、文化の歴史的な見地からすれば、まったく異なったテーマであるに違いない。
異文化の中に身を置くことは、ある状況についてまた違った解釈ができるような、自身の思考の枠組みについての認識を広げるものだ。洗練された景観に対してそのように思考することによって、「脳の公園」はつくられた。すなわち、景観設計はしばしば都市計画の結果であり、私は一時的な現象としてそれを捉え、東京においてとりわけ社会学的なふるまいを扱えるような、公共的な空間を取り上げることにした。