3分間の沈黙のために……人─自然─テクノロジーの新たな対話

Paul Panhuysen パウル・パンハウゼン(ヘット・アポロハウス ディレクター)

人間にはさまざまな知覚があり、日々の生活のなかで私たちは、身のまわりで何が起きているのか正確にとらえようと、それらの知覚を同時に働かせています。芸術はイメージ、言葉、音や音楽、嗅覚や味覚、身振り、運動、あるいは触覚などを通じて表現することができます。思考・感情・感覚を伝え、表現するにはすべての知覚が有用です。旧来的な芸術分野の境界が打ち破られたのは、なるべくしてなった当然のなりゆきでした。人間の一つか二つの感覚だけに限定されるようなアートの分類方法は、もはやまったく意味をなさないのです。 そのことへの気づきはまた、数多くの新たなアートの領域を切り拓きもしました。それは、芸術が永遠なるべく制作されるという観念をくつがえすものでした。一時的・仮設的なアートの提示が、「永続的なる芸術作品」という固定的な見方を払拭したのです。

テクノロジーの発展は、アーティストたちに新たな表現媒体を提供します。写真、映画、ビデオ、テレビ、音声録音、キネティック・テクノロジー、コンピュータやインターネットなど、こうしたものがアーティストの創作意欲を刺激しています。時々刻々と変化するアート、複数の感覚に訴えるアートは、従来展示されてきた視覚芸術の標準的プログラムの枠組みには収まりません。現在、数多くのアーティストが新たな芸術形式を展開させ、新しいテクノロジーによるメディアを個々に、あるいはいくつか組みあわせて用いています。ビデオ・アート、映像、写真などは芸術の表現形式としてすでに受け入れられ、インスタレーションやパフォーマンスは美術館においても一般的なものとなりました。しかし、その進展は未だ完結してはいないのです。新たな表現形式が日々創案され、その展開が成果をもたらすためには、アート界へと針路をさだめつつパブリックに向きあう道を見出さなくてはなりません。

「3分間の沈黙のために……人─自然─テクノロジーの新たな対話」のような展覧会の重要性は、このような文脈で見ていただかなくてはならないものです。 芸術の活力は、アーティストが持続的に自らの仕事を改良していくことができる、その過程にかかっています。作品に真剣な眼差しを送ってくれる他のアーティストや観客と、頻繁に意見を交わすことによってのみ、こうした過程が生まれてきます。「芸術を理解する」とは、見ること・聞くことによる学びなのです。それは教育的プロセスであり、いわば独習ともいえるものです。かつての小学校においてそのような状況が生みだされたことは、重要な意味をもっています。

1995年のオランダ、アイントホーフェンでの「NowHere」展に始まり、続いて1996年に東京で開催された「根の回復として用意された12の環境」展で、日本とオランダの参加アーティストたちが交わした対話──その対話をつなぐ新たな機会が得られ、私はたいへんうれしく、また感謝しています。この新しい共同プロジェクトを実現に導いたギャラリー・サージ/ICAEEの渡辺千恵子、酒井信一の両氏へここに心からお礼申し上げます。

『3分間の沈黙のために……人─自然─テクノロジーの新たな対話』p.9

関連展覧会:
  • t12 日本・オランダ現代美術交流展 「3分間の沈黙のために……人・自然・テクノロジーの新たな対話」(東京)


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