アーティスト・シンポジウム「根の回復に向けて ─ 外在する芸術/内在する芸術」

日時:1996年6月15日
会場:旧赤坂小学校(東京都港区赤坂4-1-26)
パネラー:安藤 泰彦、小杉 美穂子(KOSUGI+ANDO)、有地 左右一、笹岡 敬、佐藤 時啓、千崎 千恵夫、浜田 剛爾、水嶋 一江、保科 豊巳、松枝 秀晴、Paul panhuysen パウル・パンハウゼン、Guus Koenraads フース・クーンラーツ、Christiaan Zwanikken クリスチャン・ズワニッケン
司会:天野 豊久


■芸術の「じりつ」性──自立と自律 (▲先頭に戻る)

司会 ── それではシンポジウムを再開します。安藤さんから質問があるようですね。

安藤 ── 先ほど、身体とテクノロジーの関係についての話がありましたが、今回、身体そのものを使うパフォーマンスをやっている方がおられるので、質問をしたいと思います。浜田さんはパフォーマーとしてどのような身体感覚をもっていらっしゃいますか。

浜田 ── 僕は、自分のパフォーマンスを関連性でとらえることはよくないと思っているので、あまり言いたくないのです。しかし、安藤さんの質問を僕なりに少し変換して理解しますと、簡単にいえば、それはやはり身体とテクノロジーの問題につきるだろうと思います。先ほども述べましたが、身体のありようとテクノロジーは非常に似通っていて、僕がもっとも興味のあることは、たとえば言語がそうであるように、ひとつの自律性をそれらがもっていることです。身体には身体の一種の自律性があり、じつはテクノロジー自体にも自律性がある。そして、それらは切り離れてあるわけでない。たとえば、水嶋さんの糸電話のような作品は、もちろん彼女のアイデアであり作品であるわけですが、それは糸というものに触発されていて、糸というもの自体が自律性をもっている。だから逆に彼女のほうが作品から発見していくものがあると、僕は考えているわけです。多くの素材というものは、人間が関与することや意識することによって、その自律性が再発見されるのではないかと。
人間だけでなく存在するすべてのものが、ある種の自律性を、あるいは自律的な意志をもっている。その意志というものに対して、人間がどのような発見をもちえたか。近代哲学では、「私」というもの、神と私との関係において、自律性の発見が最大のテーマとなっていると考えられます。我々は人間というものすら、ひとつのメディウムとしてとらえている部分があって、そのような客観性をもってどのように判断していくのかが近代哲学のひとつの問題だと思うからです。このとき、身体というものがどんな存在かという問題については、答えることがなかなかできない。引用や演繹的な方法を使いながら、身体とはどのような存在であるのかを周辺から追い求めたことで、我々の身体とその行為の基準や規範、あるいはそこから生まれる制度などが浮かび上がってきたのではないか。
当然のことながら、それを促進させ進化させていくと、多くの人間が住む場合の規範が生まれていきます。それをひとつのメディアとしてとらえたとしたら、メディアが決定する力とはテクノロジーを介在させなければ成立しないし、我々が生存できないということがある。人間の社会においても動植物の世界においても、ひとつのメディアとして存在することで彼らは生き抜いていくという大気的・宇宙的な規範というものがあるのではないか。我々自身をつくり上げている存在というものを理解しやすい概念として表すために、身体というものを持ちだしパフォーマンスをおこなうのだと、そう考えられます。それはきわめて生々しい身体を逆に取り出すことになるでしょう。
とはいえ、実際に生々しいかどうかは謎なのです。我々はたんに遺伝子を媒介する筒のようなものかもしれないし、知覚する身体としての伝達器官なのかもしれない。しかし、我々は人間が共同して生きるなかでの最も重要な感覚として、物語性というものをもっているのです。たとえば神という存在があったとすれば、物語によって我々は神をよく理解することができる。あるいは比喩によって我々は自分自身を見つめ直すことができる。物語性によって芸術というものが、共同体のなかで生きる人間に多くの力をもたらしていたのではないかと僕は考えています。簡単にいいますと、芸術とは人間を理解するきわめて有効な翻訳機として存在していたのではないかということなのです。フィジカルという問題も、じつは物語性をまといながらでてきている。知覚する身体と、生々しい身体──物語性と親和性に満ちた身体──があって、このふたつの身体のなかで我々はせめぎあっているのではないでしょうか。今日、テクノロジー自体も自律的な方向をめざすことを考えてみれば、人間にとってのフィジカルな問題、人間の肉体性の問題というものが、自律性をどのように再確認できるか、あるいはもうひとつの自律性をいかに見出すことができるか。困難な肉体を抱えたときに、困難に打ち勝つ方法論の再認識を肉体のなかに求めることが、近代以降、ひとつの可能性として強く求められているのではないかと思うのです。
答えになるかどうかわかりませんが、少なくとも我々自身が考えている肉体というものは、パフォーマンスをする肉体ではなくて、問題を提起することによってはじめて起きること、つまり目的のない社会に対してひとつの目的を提起するといった撹拌状態をつくることが、身体に対する今日的な課題なのではないでしょうか。

安藤 ── いまのお話のなかで、メディアの自律性という言葉に触発されました。僕らもそういうことを考えています。今回の作品は一年前に廃校になった小学校でおこなった展覧会と同じものなのですが、その展覧会のときに、人間の思いが学校にしみこんで、建物が生きているような感じがしたんですね。そして場なりメディア自体が、どうやって自律性を獲得していくかということに興味をもちました。メディアだけで自律しているのではなくて、人とのネットワークというシステムのなかで自律が起こっていくのではないかと感じています。

司会 ── 少し具体的な部分に戻っていきたいと思います。先ほど「なぜ(会場が)小学校か」という話、あるいは小学校と向き合ったときにどのように作家が考えたかという話がでていました。また、一番最初に「恐いと感じる作品があるのはなぜか」という質問がありました。言葉としては、いずれも非常に具体的なものですね。しかし、そのような具体的なことから、芸術がもっている身体に対する影響であるとか、制度に関するイメージというものを含んだ話に展開できるものと思っています。いままで何人かの方も答えていらっしゃいましたが、小学校という場所と向き合ったときにどのように関係を持とうとしたのか、あるいは一切関係がないのかということをうかがいたいのですが。まず、参加作家ではない千崎さんに小学校で展覧会を開催することに関して、どのように感じたかおうかがいします。

千崎 ── 小学校ということよりも、僕たちが通常会場とするギャラリーなどから離れて、野外であるとか別の場所で展覧会を開催することによって、ある種の制度に対する距離が明確になることがあると思います。社会の政策や国の方向性が明確ならば、その距離というものは非常にはっきりとした形で見えてくると思うのですが、現在のように先が一方向でない場合には、なんでも受け入れるような体質があって、なかなか見えてこない部分があると思います。日本の美術状況はあまりよいものだといえないし、どこに場所を設定し、ねらいを絞っていくのかが非常に曖昧になっている。やる側も曖昧になっていますが、ターゲットも曖昧になっているということが考えられるので、逆に僕のほうが小学校で開催することが何か意味があるのかをお聞きしたいと思うのですが。

安藤 ── 小学校の話にも興味があるのですが、もう少しシステムの話をできないでしょうか。たとえばズワニッケンさんの作品は、それぞれの機械は個別にあって、それをネットワークでつないでいます。ヘスさんの作品においても、ひとつひとつは自立していますが、集まることでまたひとつの動きをつくりだしています。個々のものをネットワークで結んで作品を構成する、そのシステムについておうかがいしたいのですが。

小杉 ── 先ほどの浜田さんのパフォーマンスについてのお話で、作家がどのように作品と関わるのかということの糸口が見えたのではないでしょうか。つまり作家が関係のなかからひとつの新たな物語を紡いでいくと考えるならば、今回のテーマである「身体」を絡めた状態で話を進めていけると思います。それが顕著に見える部分として、ズワニッケンさんにすればネットワークを組ませている作品の形態が、自立しながらも人の介入を呼び込んで関わりをもっていることや、ポールさんの作品では、理科室という物語をいったんふまえ、そこから観客が参加するサイエンスの空間という新たな物語性を創りだすといったことなどがあげられます。

パンハウゼン ── いまの質問に関してですが、私は、あるがままの理科室を受けとめてインスタレーションをしました。まず、最初に理科室を見たときに少し驚きました。というのは、私が行っていた小学校には、理科のために特別に設けられた部屋というものがなかったからです。そこで、学校というのはいったいどんなところなんだろうということを考えてみました。そういうことがあって、皆さん気づかれたと思いますが、もともと学校にあった星座表など小道具を私のインスタレーションのなかにも使っています。
また、先ほどのパフォーマンスに関しての質問なんですが、私個人の経験からいいますと、自分の身体を使って感じ、そして体験するという感覚よりも、自分自身を喪失していくという感覚をもってパフォーマンスをしています。私は決して自立したアーティストになろうと試みたことはありません。もちろん独立した存在でありたいと思っていますが、そのふたつは似ているけれども非なるものです。アーティストといえども社会のなかに位置しているものですし、どんな人間もそれぞれユニークで違った存在であるということを言いたいからです。
個人的には9人兄弟という大家族で育ったので、社会的な側面というものが非常に重要でしたし、ほかのアーティストたちとのコラボレーションをいつも楽しんできました。いろいろな世代のアーティストと一緒に仕事をするときに、互いに自己顕示欲のようなものもあるとは思いますが、だからといってアーティストがそんなつまらないことで仕事ができなくなることはありません。また私は、アーティストが天才であるなどということは信じていないのです。アーティストというのは、ごく一般的な人間だし、またそうあるべきだと思っているのです。一生懸命働き、作品をつくる、ただそれだけだと思っています。そして自分の感じたこと、よいと思ったことを表現するだけです。人生のなかで、どのように感じ、そして愛するかということを提示しなければならないと思っています。私の言葉でアートを言い表すとしたら、それは、人生が何を映し出しているのか、ということだと思います。たんに考えることや感じることとは違うのです。また、私たちは、他者とお互いに関係性をもつ必要を感じています。
先ほどの自立性についての話ですが、1960年代に芸術の自立性が盛んにもてはやされたことがありました。しかし私は、どんな人間も自立ということはできない、独立した存在にはなれるけれどもそれは別のものであって、互いが互いに結びつきあっている存在だと考えています。だからこそ、先ほどアートというのは共有するものだと言ったわけです。どの生命体も共有してしか存続できないと思っています。アートは社会的な側面をもっているものだし、持ち続けるべきものだと思っています。

会場 E ── お話を聞いていて、浜田さんのおっしゃっていた自律性という言葉とパンハウゼンさんの自立性という言葉は、少し違うのではないかと思ったのですが。

パンハウゼン ── それはたしかにあることだと思います。先ほど、60年代のアートの自立性についてお話ししましたが、そのことと浜田さんの使われた言葉の違いというものは、彼自身もわかっていると思います。浜田さんも自立性という言葉を使ってはいましたが、自立性を超えて、何か結びついているものについてもおっしゃっていたと思います。

通訳 ── 私も先ほどから聞いていて、「じりつ」性という言葉が、日本語でもメディウムの自律性を意味するときと一般的な意味として使われることがあって、両方の意味で日本人のアーティストたちも使っていると思ったのですが。

安藤 ── たしかに「じりつ」のもっている言葉の違いというものはあるので、正確な翻訳はできないかもしれませんが、パンハウゼンさんがおっしゃっていた自立とは、様々な結びつきのなかで存在している自立というものだと思います。浜田さんがメディアにおいての自律、システムとしてそういうものがあるといわれたことは、翻訳の差異を超えてひとつの示唆を与えると僕は考えてもよいと思うのですが。

浜田 ── パンハウゼンさんと僕が使った「じりつ」という意味は違ったと思います。僕の基本的な考えをあげるならば、自律とは、たとえば石があって、それが持っている結晶のようなものだと思うのです。つまり自然界が見事に石になるために仕組んだ、石それ自体の意志をもった結晶によってなし得る力、それを僕は自律と呼んだのです。それは組成される力、あるいはすべての存在に等しくある制度といってよいでしょう。制度というとまた誤解を受けるかもしれませんが、等しい素材がもっている自律的な力、言い換えれば天から与えられた力といってもよいでしょうか、あるいはそれ自体が成し得る整合された力といったものなのです。つまり、ランダムに見えながらもきわめて精巧につくられている制度、それを僕は自律と呼んでいます。
そしてもうひとつの自立、近代言語でいう自立というものを我々が成し得るか否かということは、また別に大きな問題としてあります。それは、哲学的な命題において自立を問いかける精神だけではなく、存在そのものが受ける影響において考えることが自立の条件となる。つまり我々は自立しているのかしていないかの決定権を、自身ではなくて他者によって与えられているということが絶対的な条件であると、僕は思っています。

笹岡 ── 以前から芸術というものは制度から逸脱していく、歴史性から逸脱していくという働きをもっていました。しかし、逸脱したと思ったとたんに制度というものになってしまうというパラドックスもあわせもっていたのです。制度から逸脱すること自体が目的ではなくて、容認していくことがひとつの目的になるのではないか。くしくもミシェル・フーコーが、病院と監獄と学校というのが建築として同じような構造をもっている、監視と監視される側とで成り立っているといっています。ある意味で学校という場所で開催することが、アンチ・ミュージアムとなるのにも関わらず、それが制度に囲い込まれてしまう可能性をもっています。しかしながら、私たちはそれに対して向かっていかなければならないというパラドックスが、ここにも存在するのです。そのなかで自分たちがどのようなポジションをとっていくのかということが、先ほどの自立性につながってくると僕は思っています。

会場 F ── 抽象的には答えていただいているとは思いますが、美術家の方というのは、社会において私たちがスポーツを観たり、映画やオペラを観たりと同じような意味で、私たちの日常生活において、生きていくために癒しになっていると思います。その意味では医者という存在ともいえますが。

笹岡 ── 質問の前提を覆すようですが、基本的に癒しというのは人から与えられるものではありません。自分が癒されたと感じたときに癒しというものが成立する。芸術的な問題だけでなく心理学の面からもそのようです。今回の展覧会のような場に関わった方々が、自分にとってこの場がなんであったのかを確認していくプロセスが、癒しにつながっていくかもしれないし、逆にその人の社会性が破壊されて職場に復帰できなくなる可能性だってある。つねに誰かに与えられて受けとるという関係から物事は成立しないということを、僕は図式化したいと思っているのです。

会場 F ── 社会構造を改善したい、変えていくために作品をつくっていると考えているのですか。

浜田 ── いまの質問と直接は関係ないのですが、思い出したことがあります。この質問の根底にはきっと、近代というものがどのような姿を現したのかが前提になっていると思うのです。
かつては芸術というものが大きな力を持っていたといえるでしょう。なぜなら、芸術が人間の生き方に深く関わっていた時代があったと思うからです。しかし、19世紀以降、科学の力のほうが巨大になっていますね。科学の発展の根底には、合理性や客観性とともに、大多数の人間が幸せになりたいという社会主義的な欲望があった。そうしてサイエンスが大きな力を持ち続け、サイエンスが芸術を凌駕しつつある時代を我々は経験しはじめている。さらにいうと、サイエンスとともにもっとも特徴的なのが、経済社会だと思います。我々は経済社会の影響や恩恵なしに今日を考えることはできません。経済社会の持つ力のなかで、サイエンスの問題やその他エコロジカルな問題がでてきています。このような大きなテーマが主流になってきたとき、果たして芸術は過去のものなのか、あるいは芸術は過去に大きな力をもっていたのか否か、もっていたとしたらいつその力をなくしてしまったのか、あるいは常にそれは相対的な関係にあったのか、という問いかけを我々は根底にもつようになった気がするんです。
去年のオランダ展のシンポジウムでは、芸術と社会との関係がテーマになりました。なぜならば、社会というものが、ロマンチックにとらえられるような対象ではなく、きわめてプラグマティックなものであるという現実があり、またテクノロジーの巨大な発展をたんに記号的に区分けすることなく、それ自体が一個のテーマになってしまうような状況があるからです。従来の哲学のように、社会と哲学を同等に扱うことが果たして可能なのか、それよりはむしろ社会と哲学、社会と芸術がどのように共存できるのかを考えていったほうがよいのではないか。我々自身にとっての有効性について考えなければならない時がきているのではないかと思うのです。
僕が哲学をもちだすのは、従来の哲学がもっている意味合いが、人間を考えるうえでやや古びてきているのではないかという恐れがあるからです。それでは新しいものとはいったいなんだろうと考えたときに、僕にはわからない。状況的にそれらがせめぎあってきたときにわかるものとしか言いようがない。しかし、重要なファクトは目の前にかなりあり、芸術という問題にたてば、それが問われているであろう。そして他の分野においては同じような問題が、逆転しながら起きているのだろうと考えられると思います。
そのなかにおいて、我々が考えている制度とはいったい何か。人間を律している制度とは、そして美術の制度とは。それらを考えるためには、サイエンスと芸術と経済社会と、エンバイロメントな問題を含めたいくつかの要素をつなぎ合わせることによって、僕らは答えを見つけるしかないだろうと思うのですね。芸術の自立性という問題をパンハウゼンさんは、1960年代の過去のものだといいました。たしかにその通りだと思います。なぜなら、それは絵画が自立性を確立できるという幻想をもった時代だったからです。いまは、もしかしたら(芸術の自立性は)ないのかもしれないという仮説にたったほうが、そういう要素がたくさんあることによって証明され得るかもしれないと思うんですね。
演繹的にいいますと、この展覧会においてもテクノロジー自体が問題になりかねないし、美術館ではない学校という場をなぜ選ぶのかという問題も、我々の社会が生み出している多くの要素によって構成されたものを判断する材料として、提示されているのだろうという気がします。そのあたりが論旨の対象にならない限りは、学校でやることがどんな意味を持つかは、たいした問題ではないのです。個人的にいえば、学校でやろうが美術館でやろうが野外でやろうが、表現方法というのは多種多様に変わりますけれども、本質的には変わりがない。本質的に関係するのは、僕でいえばコミュニケーションする存在としての肉体とインスタレーションと考える力、そしてパンハウゼンさんがいうような共有する力が、いかに発揮されるかに尽きるわけであって、場というものはそれに力を与えるひとつのエレメントであると考えています。今まで述べたようなことは、社会が構成している様々な要因というものに、我々がどのような認識を持っているのかという討議のなかに隠れていることだと考えています。

司会 ── 今まで出た話をもっと進めていきたいのですが、終了しなければならない時間になってしまいました。話が途中で切れてしまい申し訳ありません。長い時間、ありがとうございました。

シンポジウムの録音記録より(カタログ未収録)

関連展覧会:
  • t06 日本・オランダ現代美術交流展 「NowHere」(オランダ展)
  • t08 日本・オランダ現代美術交流展 「根の回復として用意された〈12の環境〉」(日本展)


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