現代美術の出会いと変革を目指して──日本ベルギー現代美術交流展・成立の経緯と目的

酒井 信一(ICAEE代表)

1989年に開かれたユーロパリア・ジャパンは、それまでは皆無に近かった日本現代美術に対する関心をベルギーに引き起こしました。その関心は従来の異国趣味に留まったものではなく、ベルギー現代美術自身の問題意識が投影されたもので、ベルギージャーナリズムの辛口の批評は、ベルギー・日本双方に反省の機会をもたらしたものとも言えるでしょう。この動きを受けて1989年5月~7月にかけて美術家ドゥラティン=ジャン・ミッシェル氏、サン・リュック美術大学教授テレーズ・ショットー女史らが相次いで来日し、美術大学を視察したり、ギャラリー・サージ等において「現代美術の〈現在〉」についてのシンポジウムを重ねたりしました。

そのギャラリー・サージに集まっていた現代美術の若手作家たち──彼らは、巨大地下空間での独自の展覧会『大谷地下美術展』に1984年から参画していたのですが──とベルギー人評論家諸氏との間で、現代美術の可能性を拡げるような新しい交流展はできないものか、という話が出てきました。その後、日本・ベルギー相互による数多くの討議を経て、日本・ベルギーの20数名の現代美術作家がそれぞれの地に赴き現地制作して展示する、という新たなタイプの交流展がここに実現しました。

美術の歴史は、人間の空間認識と時間感覚の変容=革新の歴史そのものです。旧来のタブロー中心の表現から遠く隔たった現代美術は、その歴史の先端を切り開く責務を負っているでしょう。日本・ベルギー双方の若手作家たちに、新たな場と可能性を準備すること、本交流展は、それを目的として、以下の方法を企画しました。

1─展示会場

まず、展覧会場を従来の美術館や画廊でなく、日本では下町情緒豊かな浅草の金竜小学校旧校舎、ベルギーでは都市産業の歴史を今に残すサンカントネール公園としました。どちらも歴史的な建造物で重厚な空間を形成しており、なおかつ市民の日常生活に連なる場所です。これらの属性は、作家と観客の両者に重要な意味を持ちます。美術館や画廊という静態的かつ制度的な場所でないために、作家は呪縛から解き放たれるとともに、創作の基盤から、日頃経験しない緊張を強いられることとなりましょう。そこでは制作上の暗黙の前提となっていた諸条件が問い直され、表現の革新が試みられる筈です。さらに4月に日本、半年後の11月にベルギーと、連続して制作するという事実が作家の自覚をより加速するものと思われます。
一方、観客も、日常の延長空間において美術作品に接する機会を持つわけで、美術受容ではそれまで体験したことのない能動性を回復するに違いありません。

2─創作過程

本交流展の交流たる本質は、作家は自国に留まり作品だけが行き交うというこれまでの定石と異なり、作家自身が現地に赴き、日本・ベルギー一体となって展覧会場で制作する、という点にあります。創作現場のこの共有は、創作過程をいっそう刺激的なものとするのに役立つでしょう。異文化との対峙を通して、作家同士の生のコミュニケーションは、作品内部に染み込むことにもなります。
そのうえ、素材は現地調達を旨とする、と約束されており、本交流展の実験的性格は作家の冒険心を呼び覚ます契機となるのも疑いありません。
なお、創作過程の一部をワークショップとして観客に見学してもらうことも予定しています。創作の秘儀の共有もまた、〈交流〉に値するからです。

3─事前、事後のコミュニケーション

作家一同が、同時に、同一箇所で制作する、という好条件を無駄にしないために、本交流展は多種のコミュニケーションの場を準備しています。事前に資料、エスキースを交換して作家相互のコンセプトの理解をはたし、また、両国の美術のありようや、展示会場の質の把握を済ませます。会期中には、各種のレクチャー、シンポジウムを頻繁に開催し、作家相互の言語上の交流も目指します。本交流展は半年間を挟んでの二回となっていますので、内省の深度はいっそう深いものとなるに違いありません。
展覧会終了後には、事後報告展を別に設け、作家各々の達成された可能性と捨て去られた可能性を検証します。
以上のコミュニケーションを総括することにより、世界の現代美術作家同士の、同様の交流展の可能性を模索したいと考えています。

『ASAKUSAÉ(浅草へ)/Orientation 50°Nord』p.4-6

関連展覧会:
  • t01 日本・ベルギー現代美術交流展 「ASAKUSAÉ 浅草へ」(日本展)
  • t02 日本・ベルギー現代美術交流展 「Orientation 50° Nord」(ベルギー展)


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