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『ASAKUSA E (浅草へ)/Orientation 50°Nord』カタログ(1991) 所収4─本交流展のタイトルと理念
日本展タイトル ─ Asakusaé ─ は、両国の、歴史・文化・民俗の異なる作家が〈浅草へ〉行き、共通の基盤に立ってそこで何かを探し出そう、という意が込められています。また、ベルギー展タイトル ─Orientation 50° Nord ─ は、展覧会場の名である「サンカントネール」に掛けつつ、〈北緯50度(ブリュッセル)に進路を向け〉て、作家の冒険を導こう、という狙いを意味しています。
展覧会場の特質等は前述したとおりですが、現代美術を取り巻く状況と本交流展の結節点について、ひとこと付け加えておきます。
高度情報化社会に生活するわれわれの知覚は、情報の高密度と迅速さによってだけではなく、メディアシステムの構造そのものによって、日夜、浸食され続けています。これは、諸領域の芸術作品の受容=流通の在り方にもあてはまります。現代美術の一例に限ってみても、本来、一回性の、多角度からの視線を要求=期待する反言語的インスタレーションが、固定的批評写真の文法とメタ芸術的批評言語の規範に従属しがちである、という事情は、野心を持つ作家の焦燥を駆りたてているでしょう。観客の知覚は刻一刻、メディアの理法に飼い馴らされ、それと並行して、作家の想像力もまたメディアの網目に搦め捕られていきつつあります。人間の知覚と感覚を切り拓くという栄光を担ってきた美術の不羈の歴史はどこへいったのか?
創作の原状況の時点から、自らを開放しはじめよう、と望む作家の意識に、金竜小学校旧校舎という場がひとつの光を投げかけます。人口流出が続く都心に位置するこの小学校では、児童数の減少のために、新校舎を建造して旧校舎を取り壊そうとしています。経済原則の非人間性が、人々の親しい記憶が宿る濃密で流麗な旧校舎の空間を葬ろうとしているのです。そこでは、かつて、生き生きとした声とエネルギッシュな時間が充ちていたでしょう。消え去るのは、建物ではなく「生活の記憶」であり、遺るのは敗北という記号です。こうして、いま、個が状況に押し流される象徴としてこの旧校舎が、自己実現・自己回復を希求する作家の前に、作家の相似形として立ち現れてきます。感ずるべきは決して憐憫ではなく、求めるべきは決して郷愁ではありません。試されるのは、現代美術作家の不可能に挑戦する意志のありようそのもの、かもしれません。
ベルギー展の会場であるサンカントネール公園の社会的性格は、もちろん、金竜小学校旧校舎のそれとは異なりますが、美術館でなく画廊でもない、つまり、準備された空間ではないという基本性格は同様です。日本の場合とは反対に、むしろ、歴史と生活の厚みに対して、個を拮抗させ得るかどうかが問われると言えるでしょう。半年間のインターバルが、日本展の結果を熟成させ、思いがけぬ変貌を作家にもたらすことが期待されます。
いずれにしろ、本交流展の形態上の新機軸は、現代美術と社会状況に対する切実な問題意識と切り離せない、ということは重ねて強調しておきたいと思います。
独特のスタイルを持つ本交流展は、参加作家たちに大いなる可能性を開示していると同時に、実際、多くの危機と困難も用意していると言うべきでしょう。ただ、現代美術作家の〈現代〉たる所以は、常にそういう不確定性=カタストロフに身を置き、常にそこから出発することにこそ依拠しているものと信じます。