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『ASAKUSA E (浅草へ)/Orientation 50°Nord』カタログ(1991) 所収現在いかにも盛況に見える美術の状況は重要な問題を置き去りにしたまま個人の存在の誇示の具と化し、消費という構造の中に飲み込まれようとしている。
事物が消費、排泄しつくされ、精神までも消費され排泄されようとする中で現代美術は美術の存在理由そのものを問うことからはじめたのではなかったのか。
そこで初めて現代美術はその必然性を獲得してきた。そのベクトルの先にたえずあるのが人間存在にかかる美意識、理性の追求だったのではないか。
これなしの現代美術は空しい外ヅラだけの概念や方法論の追求に終わってしまうだろう。つまり人間社会の日常の構造を解体し分析し再構築すること抜きに美術の構造は何も見えてこないし問うことはできないだろう。現代美術の存在すら危うくなってくる。
私はこの置き去りにされようとする問題をじっくりと見つめ直すことで表現が開かれる可能性があらためてでてくることを期待したい。