text04_01_J
『NOWHERE/12の環境』カタログ(1997) 所収芸術家と環境が相互に及ぼす関係は、常に理解と混乱を引き起こす。経験は感情、思考、発想、発見の道しるべとなるのだが、経験がひとたび芸術に翻訳されると、それは他の人と共有され、討論のきっかけを与えてくれるようになる。社会が生きながらえるのは、存在の質について遠慮なく論議がなされる限りにおいて、そして、生自体が芸術に表現される限りにおいてである。たとえ、生と死に関する疑問に対し我々が答えを得ることが永遠にないにしても、社会が存立するためのこうした条件はきわめて重要である。社会と環境における変化は、やがて、芸術の形式上の条件と芸術の内容に、さらには表現手段に影響を与える。
社会と人々の個人生活にふりかかる出来事は、人々の知覚、思考、意見を変えてゆく。芸術家が自分自身に課す掟を除いては、芸術にいかなる掟もない。芸術家は自由であり、望む限りのどんな表現手段を選んでもよいのである。
社会と芸術家の間にはなんの契約も存在しない。芸術家は賞賛という報酬を受け取る。「社会の中のたんなる職業ではない、という芸術家の地位を確立するために、芸術家は、必需品ではなくともあらゆる要素を含んでいるという芸術家の性質を顕揚しなければならない。芸術家は、観衆が自ら満ち足りる状態を顕揚し、あらゆるものが芸術に成り得て、誰もが芸術を創り得ることを顕揚しなければならない」。ジョージ・マチューナスのこの明白な言明を、私はこれまでずっと支持してきた。
芸術の世界は、幾多の作品の広範な分布によって特徴づけられている。それらの作品は、忘れられた芸術家によって、あるいは著名な芸術家によって芸術として提示されたものであり、一握りのエリートによって、あるいは社会一般によって芸術として受け入れられたものである。末永く遺る芸術もあれば、消えていく芸術もある。芸術は、記憶のなかに永遠にとどまり、印象を与えるのに僅かに寄与し、そして、辛うじて人々の注意をひき、気軽に忘れ去られる。芸術は人々、機械、動物、自然によって創られる。見出された事物、または似姿は芸術作品であり得る。芸術家にとって必要であることのすべては、芸術を芸術たらしめる何物かに狙いを定めることであり、少数であれ、多数であれ、その何物かに心動かされる観衆の存在である。そして、見よ、新たな芸術作品が生まれ、感情、思考、発想が社会に送り込まれるのだ。そうした諸々の要素は、当の芸術家の独創的な感覚や発想に一致している必要はない。
自分自身を芸術の専門家と見做している人々がいる。何が芸術で、何が芸術でないかを決定し、芸術の批評基準を規定することが、自身の努めであると彼らは感じているのである。こういった人々は、芸術に感動する機会を自ら奪っている。感じ、考えたことは何であれ表現する、という芸術家の自由の中にこそ芸術の神髄が深く宿っていることを、彼らは理解していない。さらに、芸術作品を受け入れ、消し去り、無視するという公衆の自由も、芸術家の自由と同様に、芸術の必須の条件である。
それゆえ、芸術と公衆との間に自分たちの権威を及ぼそうと望んでいるどんな専門家の意図に対しても、疑いの眼差しを向けねばならない。そうした専門家は愚鈍であり、芸術の外部の利益に奉仕しているのだ。
真正な芸術は、権力ゲームの上に展開されるものではなく、市場価値の再現のために、また、専門家の権威を高めるために創られるものでもない。それは、文化的な形式でもなく、政治的あるいは国家的宣伝手段でもない。芸術は、テクノロジーや伝統的メディアによる認知、あるいは芸術家自身による評価を果てしなく追い求めたりはしない。いま述べたようなつまらない目的を底に秘めて作られ、芸術として紹介されるあらゆるものが、芸術の社会的な意義が知覚されることに否定的な影響を与える。本物の芸術とは、各自の好みに応じた放送局を選びだせる感度の良いラジオのようなもので、感情、思考、発想の様々なチャンネルに人々は周波数を合わせることができるのだ。芸術の動かざる価値は、我々がここで何をしているかを、絶えず問題とする点にあり、そうして、生命に対する我々の情熱を養い、我々の存在理由を問いかける点にある。こうした過程は、人間の生でなく動物の生にも起こる、と考えても許されるだろう。(1995年7月)