「巨大都市の原生」1992

Christophe Charles クリストフ・シャルル(アーティスト)

ベルリンのフェスティバル「ウアバーネ・アボリジナーレ」のテーマとして日本を取り上げようという計画が生まれたのは、1991年5月に「フロインデ・グーター・ムジク」の所長、マチアス・オスターヴォルド氏と話していた時である。日本に戻ると私はパフォーマンス、つまり広い意味でのダンスと音楽に関わるアーティスト達のうち、特に独創性に富むと思われる10人余りのビデオ資料や音楽テープを集めた。しかし、ジャンルの多様性にも重点を置きたかったので、アーティストの人数は結局21人に上った。次いで私はプレゼンテーションのビデオを用意し、それぞれの履歴書を翻訳し、この多量の資料を、あまり知られていない芸術形態にも関心を示してくれそうなヨーロッパの機関に送った。東京のギャラリー・サージの酒井信一氏が、91年11月に協力を申し出て下さった。私達は、現代アートを助成している主な団体に企画を提出し、参加者をヨーロッパに送るために必要な最低限の金額をどうにか集めることが出来た。私は先ず、この企画を後援して下さった全ての方々に心からお礼を申し上げたい。 日本は、経済や武道や茶道などでは西洋でも有名だが、言語は知られていない。このような状況が、根本的な無理解を避け難いものとし、社会的、文化的な情報伝達の遅れをもたらしている。日本の古典作品の翻訳者達の努力は、無論のこと敬意に値するが、現代日本を扱った作品の翻訳は驚くほど少ない。一般の西洋人は、いまだにステレオタイプで時代遅れのイメージを持っていることが多く、あまりに深く根を下ろしてしまった先入観を一日でも早く変更することが必要である。

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1─この企画に参加したアーティストそれぞれの目指すものは、時に懸け離れているように見える。しかし彼らは、創作態度の多様性と開放性の名の下にこそ集まったのである。彼らは皆、他の方法に依拠するアーティストとコラボレーションをすることも出来る。つまり、ダンスや音楽、映像といった異なる分野を関係付けることを知っている。彼らの「共通点」は同一性にあるのではなく、多様性にこそあるのだ。このような特徴は、コラボレーションの時に限らず、それぞれが個々に発表を行う時にも同じように見られる。一つの作品の中に、複数の要素──音、視覚、肉体等──が共存しているのみならず、より抽象的な次元で、異なるものの共存が認められる。例えば、異なる時間の概念であるが、これは大きく次の二つに分けることができるだろう。一つは演劇的、線的なもので、恐らく西洋文化との接触によって増幅されたと考えられる。もう一つは、円環的で「宙吊りの」時間であり、東洋以外にはほとんど見られない。これら二つの時間は、相互補完的であると言えよう。一方が他方を触媒し、自らが他方の「ネガ」であることを示すことで、他方を顕在せしめるのであるとすれば、感情を背負った演劇的要素の冗漫が、突然、それまで感じられなかった、虚ろで浮遊する時空間に通じるのである。このように、異なった次元を行き来することで、間隔の境界線を変化させることが可能となるのだ。 また、一つのパフォーマンスが始まった時点で、その全体像をとらえるのは不可能である。なぜなら、しばしば共鳴や反射が生じ、「後・感覚(ポスト・ヘルセプシオン)」現象を引き起こすからである。観客は、宙吊りになっていたものを「遅ればせながら」意識する。一つの音やその消失、また二音の間の間隔や空間自体に特別な注意を傾けるのと同じように、人はあるイベントや作品全体から生じる共鳴を得ることも出来る。 今述べた二つのこと、即ち、一見無関係なものを関係付け、一種のコラージュを作る能力と、一つの音や映像や仕草が残す共鳴への感受性は、西洋のパフォーマーにはほとんど見られないものであり、もっと詳細に紹介され、注目されるべきだと思われた。

2─この企画は、創造活動に欠かすことのできないオーガニゼーションの問題に、アーティストが自ら取り組めるような、ネットワーク作りの試みでもあった。そのようなネットワークが可能になれば、アーティストは、自分の活動を本当には理解していない組織からの要請に応じるだけでなく、アーティスト自身が積極的に参加し、決定者のポジションをとれる状況を作ることが出来るだろう。この種の企画は大変手間がかかる上、公的機関が寄せる関心も低く、目下のところ、似たような試みはほんの少ししか行われていない。経済的な問題が、まず障害になるのだ。日本の企業は現代アートに対して行っていた僅かな助成を、1992年以来、更に大幅に削減した。このような「赤貧状態」にあっては、どのようなチャンスも見逃さないこと、そしてよく練った活動を、団結して、効果的に推し進めることが肝要である。 経済的な問題も深刻だが、コンセプトの問題も同様である。意識するにせよしないにせよ、アーティストが複数のメディアを使うときは、クリエーションの問題はオーガニゼーションの問題にも似て、異なる要素のバランスを計ることが鍵となる。音楽のことに心を傾けない踊り手は、ミュージシャンと実りあるコラボレーションを行うことは出来ない。肉体的要素が完全に音楽的要素を支配し、音楽は単なる飾りになってしまう。また、音楽が従属的な役割しか演じられなかったという失敗を何度も経験すると、ミュージシャンは、次には逆に、あまりに熱心に自己を強調することによりバランスを壊してしまう。異なる分野が関わる作品は何でもそうだが、特にダンスと音楽の場合、互いに相手の分野をよく理解し、知っておかなくてはならない。複数の感覚領域を、無反省、無責任に舞台に共存させるだけでは、共感覚など生まれようはずもないのである。 アーティストの作品と環境との関係についても、同じことが言えるだろう。作品とは、本質からして、自立的で無頓着な単なる置き物とは異なる。作品は必然的に、ある特定の空間と、ある特定の観客に囲まれ、それらの要素と緊密な関係を結ぶものだ。作品はその関係の中で考えられるべきものである。それなしでは、支離滅裂になってしまうだろう。環境とは劇場の中やそこにいる観客など、直接的な環境だけを意味するのではない。劇場の外、即ちその国や地方の、社会的、文化的な環境も含まれる。イベントやその主催者の性質、その可能性と限界をよく考慮する必要がある。アーティストは、もしある希望が実現不可能だとしたら、怒り出すのではなく、不都合を受け入れて理解を示すべきであるし、主催者側は、アーティストの目的を出来る限り実現するよう努めるべきである。

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「ウアバーネ・アボリジナーレ1992」への参加ツアーを実現するに当たって指標とした主なコンセプトは、以上の通りである。このプロジェクトに関連した多くのイベントは、現在も続行中である。ヨーロッパの観客は強い関心を見せ、ここで注目されて、他のフェスティバルに招待されたアーティストもいる。その熱気が、日本の現代アートの世界で「責任ある」地位を占めている人々にも波及し、このような活動が、日本でもっと認められるようになることを願う。また、この種の企画が増え、ヨーロッパの人々が今日の日本文化を、より正確に理解するよう期待したい。

(仏語からの和訳:尾山裕子)

『巨大都市の原生 東京─大阪行為芸術1992年ヨーロッパ・ツアー』p.4-5

関連展覧会:
  • t03 「巨大都市の原生」 東京-大阪行為芸術1992 ヨーロッパツアー
  • t03-2 「巨大都市の原生」 東京大阪行為芸術 ヨーロッパツアー 《報告コンサート》


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