s296

“ベビーの環境”

水留 周二


会期:1998年2月23日---3月7日

作家名:水留 周二
     ミズトメ シュウジ

形態・素材:木材、鉄心、ライト、写真、クリップ、フラスコ、アクリル板、紙、ブロック、アクリル絵の具

展覧会DM

(photo:S)

作家コメント: 1997 Hermit Project “Near The Beginnig”での体験
1997年8月、チェコの田舎町プラシでのアーティスト・イン・レジデンスに参加した。そこは山深い小さな盆地で、最も低地の中心に中世に建てられたという立派な修道院が、大樹の揺れる影を壁端に映して建っていた。私達は、今は廃墟となっているここで共同生活をし、鐘楼台が中心に聳える倉庫跡で制作をすることになった。

鮮烈な空間の印象にますます高揚する私の意識に突然ショックなニュースが飛び込んできた。ボスニアのアーティストが3人参加しているというのである。私はこの数年、死をテーマの中心に据え、様々な無念の死とその周辺に眼差しを注いできた。特にここ2、3年は、戦争、原爆をテキストとして、生きとし生けるものの殺戮の現場を加害者と被害者の双方向に光を向けることによって浮上する像を、作品に定着させる作業を続けて来ていた。しかしながら私にとって様々な戦争は、やはり埋めることの出来ない距離に隔てられた、あくまでもテキストとしての存在であった。ほとんど運命として戦争を知らない私が、一方、運命として無念の戦死を遂げた無数の生命へ精神を傾注するには、想像力を先鋭化するしかない。無念を懐いて天と土に還った生き物達のその瞬間の像の一つ一つを、認識可能な場へと構築することが、この数年の私の表現としての課題であった。私にとって芸術表現とは、生を常に意味あるものとして支えるものであって欲しい。その意味で逆説的に、無念の死を実感することの可能な場を創設する必要が、私にはあった。

さて、ボスニアのアーティストとの出会いに戻るが、私の関心はもちろん、戦争を体験した彼等が、果たしてここでの表現にどのようなスタンスを取るかということであった。ムスタファは、戦争の悲惨をガラスや木、灰、ステンドグラスを象徴的にインスタレーションして、ダイレクトに告訴した。ミルサットは、ミニマル・アートを通過したアーティストで、白と黒に拘泥した。塩の小山、方形に播かれた墨の粉、燃やした木にガーゼを巻き付け箱に収めたもの、戦死者報告を掲載する新聞をインスタレーションして、鎮魂を祈った。オスカルは、我々が共同生活した宿舎にあった自転車、扉、窓の前の猫、吊るされたナプキンを写真撮影し、それを実物大に拡大コピーしたものを、実物と隣り合わせに展示した。静かな日常生活を切断したのである。この三つの表現は果たして芸術といえるのだろうか。彼等の取ったスタンスが被害者の生に裏打ちされた、やむにやまれぬ選択であったことは、それぞれの作品によってしか証明されない。

私にとって戦争はほとんど考古学的テキストであるのに対して、彼等にとっては突き放しきれない現実である。私の表現は想像力に基盤を置くのに対して、彼等は体験に支えられている。平和の続く日本において、一寸先の死を実感することは難しい。したがってダイレクトに生と向かい合う契機は、孤独になって思考の時間を自ら生み出す意志にしか訪れない。しかしながら、この肥大化した経済システムの一員として翻弄される我々にとって、自己の内部を探求する投光器とタイムテーブルの開発が急がれている。一方、死の影を必死に潜り抜けたボスニアのアーティストは、今なお、疼く自らの傷に耐えながら、目撃した死の像と生の姿を歴史として定着すべく格闘しているのであろう。日本の現実もボスニアの現実も共に他人事ではない。

混乱の街に戻った三人は今、現実に向けてどういう作品を志向しているのだろうか。そして当然、同じ問いが私自身にも向けられなければならない。今や跡形もなく原子に分解された無念の生きとし生けるものの身体に眼差しを固定してきたが、しかし、「Near the Beginning」を振り返る私の意識が転回しているのを感じる。つまり、ボスニアの3人が選んだそれぞれの手段、即ち、告訴、鎮魂、切断が、むしろ芸術に向けて試されたとすれば、彼等の焦燥と切実が痛いほど伝わってくるのである。均質で、かつシステム化された時間に追い立てられている日本で、常に切実な精神を持続していくことは簡単なことではない。ボスニアのアーティストの現実に触れて、常にアートのベースであるべき切実を突きつけられたのである。私の意識はこれまで外に向けられていた。生が、死が、いつも物語、あるいはイメージとして、身体化され隠蔽されていく。世界が、物語とイメージのアラベスクに変奏され装飾化されていく。表層のイメージとイメージの隙間に意識を集中し、そこに蠢くものを認知していくことで、世界を解体していくことが私の精神を支えてきた。しかし、そういう観察者としての知覚がいかに緻密になり得ようとも、私は機械ではない。自己という鎧の内側に、まさに切実があったのを気付かされた。とりあえず、理不尽な死という闇から切り離され遠ざけられた生に、身体の奥底から打ち寄せる衝撃波に向けて意識構造の変革を迫られている。たとえば、アナロジー変換によって身体の暗闇に据えた様々な道具、天秤、振り子、スイッチ、メス、スプーン、《欲望の機械》等々をX線透視してみなければならない。  


作品資料:
パンフレット(pdf)

報道資料:

サイト内関連リンク:
  • t09 ハーミット・プロジェクト'97 「NEAR THE BEGINNING」参加


  • ⇄ ページ・ナビゲーション ⇄