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“夢の中-鉱物コネクター”

三宅 康郎 


会期:1998年2月9日---2月21日

作家名:三宅 康郎 
     ミヤケ ヤスオ

形態・素材:写真、パネル、FRP、竹、食物、草、紙、アクリル絵の具、銅箔、金箔、銅線

展覧会DM

(photo:S)

作家コメント:
私には、今日のみぞれ混じりの寒さと、作品が生まれる過程や美しさに思いを巡らしていることとが相まって、爪先から肌身にまとわりつくような、しみじみとした想いが満ちています。言葉を無くし、日常生活の行いもおぼつかない母の両手が、私の肩に柔らかくリズムに似た拍子を打ち続けています。それは、あたかも頭で考えることの危うさを告げ、私自身をいまこの場所に連れ戻すかのように、私の凝りを暖かくほぐします。

なかば記憶の中に生かされているとき(子供の頃)には、一日が長く感じられ、どうしてもっと早く大人にならないのかと思っていたようです。つまり自分では一人前だと思っているのに、なぜ大人にならないのだろうと。心や体は急速に変わったのでしょう。しかし、その歩みとは逆に、身の回りはゆっくりと動いているようにも感じられました。またもう少し遠くて深い幼児の頃は、一日という区別もなく、時があったのかさえはっきりしないほど不動で安寧とした所にいたように思います。そして、母の胎内に浮かんでいる時は、何をどのように感じているのでしょうか。あるいは、感じる以前の何か、例えば、記憶が現実であるかのような、さらには、夢が現実でその夢以外に何もない逆時間のような一時かもしれません。

何かを感じるということは、私自身ではなく、また何かを感じるきっかけとなったものでもない何ものかが、新たにここに生まれるのだということを表現することで、それはまた、表現されたものからも窺い知ることができます。感じることは移ろい、目に見ることも、耳で聞くことも、肌で触れることもできない創造は、喜びや悲しみ、好きや嫌い、あるいは、訳の分からないものなどとして、心の中の水面に浮かんでは消えていくものではないでしょうか。その流れに竿をさし底泥を支えとして、目を細かくした網でその創造をすくい上げようとする作業を、私はしているのだと思います。



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