展覧会記録としての写真(美術作家・大村益三)

嘗て東京・神田にあったギャラリー、「パレルゴンII(ツー)」と「ギャラリー・サージ」のアーカイブの「完成」を人づてに聞いた。無印「パレルゴン」との関係が深いとも言われている自分だが、体制が変わった(藤井雅実→酒井信一、三宅康郎)「パレルゴンII」時代にも、二回程展覧会を開いていた事を、このアーカイブで改めて確認した。
「パレルゴンII」になっての第一回展(三井正人展/1983年6月)から1984年の或る時期まで、会場/作品写真のクレジットが「大村益三」になっている。これは実際には無印「パレルゴン」時代の後半から、展覧会ドキュメントを撮影していた流れの中にあったものであり、「パレルゴンII」になってからのものではない。
これらを撮影していた当時は、自分のカメラを持ち始めた時期にあたり、写真「修行」の意味もあって、手弁当で毎週神田に通っていたし、ギャラリーから依頼されてのものではない為に、撮影に関してのギャラの発生も無かった。そうした「修行」の側面とは別に、展覧会記録の散逸・分散を避ける「アーカイブ(当時はこの語は一般的ではなかった)」の必要性を感じてはいたから、撮影した全ての記録写真は、いつか訪れるかもしれない「活用」の機会を念頭に、スリーブごとギャラリーへ収める事にした。当時も今も、展覧会の記録写真を撮影するカメラマンは何人もいるが、その原板はカメラマン本人が自身の「写真作品」として所有していたり、或いは撮影した作家に「納品」したりして、資料的散逸や分散は免れないものになっていたし、それらの個別事象を関連付ける試みも皆無だった。
「有名どころ」をピックアップして構成される「美術史」は、必然的に「自画像」で構成される様なものになりがちだ。確かに作品は個別の才能の帰結であるという側面は否定するべくもないが、一方でそれは社会と分かちがたく存在するという側面もある。その意味でも、このアーカイブはそれぞれの作家が置かれていた「状況」や「環境」の相対的総体をも見せてくれるものではある。
並べてギャラリーというのは、基本的に「個人商店」的なところがあり、世代を跨いで続くギャラリーというのは極めて稀だ。いずれ殆どのギャラリーがやがては無くなってしまうという避けがたい現実があるとして、それが閉じた後にこの様なアーカイブを公開するところがどれ程あるだろう。展覧会や作家が埋もれてしまうのは、必然の「伝統」なのか。
撮影はアベイラブル光を基本とした。「ドキュメント」なので敢えてライティングは行わない(機材を持ってくるのもしんどい)。無印「パレルゴン」時代の初期は、本番撮影の前にテスト撮影をしたが、一旦「標準」的な撮影データが構築されてからは、コダックEPY(ISO50時代)にフジの色温度変換フィルターLBB4(コダックの80Cや82Cは合わなかった)を噛ませて、絞りとシャッタースピードのマッチングもほぼ毎回同じ(例:f8、2S)、光源は天井のハロゲンのみで、蛍光灯が点いていたら消す(一応使用蛍光灯の補正データーーEPR用ーーも作り上げてはいた)という「流れ」で撮影した。それから地下鉄銀座線で京橋まで行き、堀内カラーにEPYを預け、現像が上がる1〜2時間後にとんぼ返りでギャラリーに「納品」。
1984年の中頃以降、それを止めてしまったのは、制作や発表に時間を取られる事が多くなったからだ。そして徐々に神田からも足が遠退いてしまった。神田と共にあった時代の最後に、基本的な撮影データを酒井氏に伝えた(LBB4→ケンコーC4)。
バイト代で買えるカメラがペンタックスしかなく(小さいカメラが好きだったというのもある)、使用レンズの基本はSMC PENTAX M の28mm / f2.8。従って、あの狭いギャラリーでは構図が「切れる」事が多々あった。後に中古のSMC PENTAX 20mm / f4 を戦力に加えたものの、それは遂に神田で使われる事は無かった。そしてそのペンタックス一式も、やがて、初代「パレルゴン」オーナーの元へと旅立っていったのである(KからFDへ移行)。

(Facebookの投稿から、了解を得て、掲載しています。)