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“bridge as a fragment”

伊藤 洋介


会期:1997年7月14日---7月26日

作家名:伊藤 洋介
     イトウ ヨウスケ

形態・素材:紙に写真転写

展覧会DM

(photo:S)

作者コメント:
水源地にて
美術というジャンルが、他ジャンルとクロスオーバーし、溶解していくという議論が一方にあり、他方で、美術の自律性を死守せねばならないかの如くの議論がある。いずれも、美術と他ジャンルの境界線を問題とし、その内側と外側という設定を自明なものとして、議論が進められている。そこでは、捏造された一元性とでもいうべきある種の全体主義的風潮があるようだ。しかし、もし美術がその内側に、他ジャンルを孕んでいるとしたらどうだろうか。それは、内側と外側の設定自体を無効化し、それ自体分裂した存在となるのではないか。

美術の起源は、美術館の成立と切り離せない。そして、美術の展開の過程でも、上記の一元化は起きている。すなわち美術品のみに注目し、それを成立させる空間=建築を不可視のものとしてきたのである。美術の発生が、美術館の存在によっている以上 、美術はその内側に建築を孕んでいる。ソフトとハードの矛盾、と言い替えてもよい。創作に望まれるのは、制度化以前の美術の発生期に立ち合うことであり、そこに生まれる分裂を絶えず指し示しながら、それを詩的飛躍により開示することではないだろうか。

本流なき現況において、傍流=オルタナティヴは機能しない。また、本流を捏造しようという動きには、水流となる前の、未分化な水源に留まることで抗うほかないだろう。そして、その水源は、雨後の水溜まりのように極小で、至るところに偏在する。 都市開発が、不可避的に生み出た隙間にも似た、水源。

水源地において橋は、その連結機能を固定されることはない。あるときは枯渇のため 孤立し、またあるときは、艀となって移動する。極小の水源における、極小の橋。たとえば東京で、ニューヨークで、都市においてそのようなものを構想すること。



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