アーティスト・シンポジウム「根の回復に向けて ─ 外在する芸術/内在する芸術」

日時:1996年6月15日
会場:旧赤坂小学校(東京都港区赤坂4-1-26)
パネラー:安藤 泰彦、小杉 美穂子(KOSUGI+ANDO)、有地 左右一、笹岡 敬、佐藤 時啓、千崎 千恵夫、浜田 剛爾、水嶋 一江、保科 豊巳、松枝 秀晴、Paul panhuysen パウル・パンハウゼン、Guus Koenraads フース・クーンラーツ、Christiaan Zwanikken クリスチャン・ズワニッケン
司会:天野 豊久


■作品にふれること (▲先頭に戻る)

会場 A ── はじめに1階にある作品で、心臓の鼓動のような音がして、教室に入るとき非常に恐いなという気持ちが起こりました。最初の教室には入ったのですが、次の教室には旗のようなものがぶつかりそうになる作品があって、入るのをやめてしまったんですね。なぜ、恐いという気持ちを起こさせるような作品をつくったのですか。

司会 ── 最初の教室は、小杉さんと安藤さんの作品ですが。

安藤 泰彦 ── いつも恐い作品をつくっているわけではありませんし、見ていただく方を限定しているわけではありません。今回の作品は、椅子に座るとプロジェクターから卒業写真が映写されます。この卒業写真は、1995年から明治までの120年間に撮られたもので、小学校6年生が映っています。後半部分の写真に映っていたほとんどの方は、現在ではもう生存されていないと思います。私たちはこれらの写真と真摯な態度で向かい合うことが必要であると思いました。一見、恐ろしげな作品ですが、これは私たちのコンセプトの中でそういう心構えなり、思いなりがあったからです。
あの椅子には、怖さをつけ加えるために、死と向かい合う電気椅子的なイメージをもたせました。また、もうひとつには、昔の写真撮影は露光時間がかなりかかるので、首押さえという、首を動かないようにする装置があって、そのイメージもあったのです。ときどき「感電するのでは」と思う方がいらっしゃるのですが、そんなことはありませんので、ぜひあの椅子に座ってみてください。そうすることで、出逢っていただけるものが何かあると思っています。
私たちの制作意図とも絡んでくるのですが、学校というところは、明るく、正しく、元気な場所だけではなくて、たとえば体育館の裏など、ちょっと恐いというか、好奇心をくすぐるような部分があって、それをなんらかの形で思い出していただけたらと考えています。

司会 ── もうひとつは、ズワニッケンさんの作品です。

クリスチャン・ズワニッケン ── あの作品は脅かそうと思ってつくったのではなく、機械を見せたいと思ってつくったものです。教室に入ったとき、あなたは立ち止まることはできませんので、たしかに異様な状況だと思いますが。

会場 A ── ふたつの作品とも、教室の中に入るまえに音が聴こえてきました。小杉+安藤さんの作品は、心臓の音。ズワニッケンさんの作品は、トタン板のようなものが揺れて音を出していました。その音を聴いて、まず何だろうと思うわけです。部屋に入るまえは音が、中に入ってからは暗さと、そして動きがあり、そこで恐いと思うのですが。

司会 ── 恐いというのはおもしろい表現だと思います。ただ、安藤さんもズワニッケンさんも、怖がらせようとしてつくったわけではないようです。今回の場合、恐いというプリミティブな感情に訴えかける要因が作品にあり、それがセンサーやコンピュータといったテクノロジーを使ったものによって感じられたことは、感情を揺さぶる部分とテクノロジーとの関わりにおいて、現代的な何かを示唆するのではないでしょうか。これは、あとの話につながっていくものだと思います。

会場 B ── 今回の展覧会のなかで、フェリックス・ヘスさんの旗の作品が、私にとって一番うれしい場所でした。というのは、他の作品はみんな「手をふれないでください」と書いてあるんですね。たとえば、水嶋さんの作品は、見る者にとって手をふれたくなる作品です。見る側も自分の体験として作品に関わってみたいと思うのです。ただ、アーティストは自分の作品を守りたいですから、「さわらないでください」というプレートを貼ってしまう。それによって、見る側とつくる側が隔絶されているように感じたのですが。

水嶋 一江 ── 私の作品は、じつはさわっていただいてかまいません。オープニングの日は、みんなで合奏をし、積極的にさわっていただきました。また、パフォーマンスをおこなったときもそうしたのですが、何百人という人がさわることで糸が切れてしまうという予期せぬ出来事が起こりまして、現時点では、私たちがデモンストレーションをやって、皆さんに聴いていただくようにしています。私の作品の特徴としては、インスタレーションを使ってどのような音の空間をつくるかというのが一番伝えたい部分なので、作品のベストの状態を保つために、さわらないようにお願いしているのです。しかし、皆さんに退いた印象をあたえたのならば、これから考え直してみたいと思います。

パウル・パンハウゼン ── ヘスさんの作品についてお答えします。作品によって異なりますが、ヘスさんの作品に限っていえば、じかに手で触れたとしても、それが何の新しい状況も生み出さないと思っています。あの作品のポイントは、優しくそばを歩き、そして風を起こして作品に働きかけることなので、絶対にさわらないでください。さわれば、ただ作品が壊れてしまうだけです。

司会 ── その場に作品があって「さわらないでください」と書いてあるとき、さわりたくなるというのは非常によくわかります。作家として作品にさわられることをどのように考えているのか。また、本当は作品にさわってもよいのだけれど「さわらないでください」と書いてしまうのはなぜか。ということをお聞きしたいと思います。浜田さんの作品は、誰かがコードに足を引っかけたり、つまみをさわってトラブルがあったようですが。

浜田 剛爾 ── 水嶋さんの作品のように、ふれたことによって何か生じる場合もあるでしょう。僕の場合はどちらでもよいと思っています。たとえば、木やブロンズでつくられた彫刻作品などは、さわってもらっては困ることがあるかもしれない。それはそれで意味合いがあるとは思います。しかし、先ほどの方がヘスさんの作品について感じたことは、「さわらないでください」というプレートの意味よりも先に伝わってしまうのではないでしょうか。積極的な意味でさわらないようにさせることとは、若干違っていると思います。また、松枝さんの作品などは、さわれないようになっていますね。ですから、さわるとなると一種の暴力的な行為になってしまう。極端にいえば、相手の作品に破壊的な行為を起こすという参加の仕方もあるとは思いますが。ほかにも、有地+笹岡さんの作品は、さわろうにもさわれないことが瞬間的にわかってしまうでしょう。
感覚の側にそういうものが潜んでいるかぎり、「さわらないでください」という言葉は、あまり有効性をもっていないように感じます。会期中にあまり壊れないほうがよいという展覧会主催者の願いが込められた消極的な意味だと思いますし、ここにいらした多くの方が「あまりさわらないほうが作品をよくわかる気がする」と判断できると思っています。たとえば、博物館のようなパブリックな場所で歴史的に重要とされる作品があって、さわらないほうがよい場合もあるかもしれない。あるいは、ギャラリーTOM(東京・渋谷)のように、盲目の人のために積極的にさわってもらう場合もあるでしょう。これらのことは社会の中におけるボーダーラインとして、さわるかさわらないかだけが問題になるわけではないと思います。

笹岡 敬 ── たいていの場合、「作品にさわらないでください」と書くのは、作品が壊れるからという理由ですよね。僕らの場合は逆で、さわった人が壊れる(危ない)から「さわらないでください」と書いています。今回の展覧会では、部屋の外に「作品にさわらないでください」というプレートを貼ってありますが、あえて部屋の中には貼りませんでした。僕自身は、ギャラリーで個展をやる場合、このようなプレートは一切貼っていません。美術館ですとか今回のようなパブリックな場所では、こちらが予想できないことがありますので、最低限そういうことから逃れるというだけの意味あいです。
先日おもしろいエピソードがあったのですが、埼玉県立近代美術館で「やわらかく─重く」という展覧会(1995年)に出品したときのことです。それはヒーターを使った作品で、当然、ヒーターをさわるとやけどをするわけです。ただ、天井近くに設置し、通常ではさわれないため「さわらないでください」とは書きませんでした。壁からステンレスの棒が2メートル50くらい伸びていまして、先端のほうにヒーターが仕掛けてあり、上から水がつたってきてヒーターのところで蒸発します。ヒーターはタイマーでオン・オフを繰り返していて、熱くなっているときはジュッと湯気が蒸発するのですが、タイマーが切れて冷めてくると、床に水がポトポト落ちてくる。下には浅い水槽を設置していて、そこに光のフリクションがあって、壁面に水の波紋のパターンができるという作品です。その展覧会で、ある観客の方が水槽をのぞき込んでいたらしいんですね。そのときに頭のてっぺんに水滴がボタボタと落ちてきたわけです。彼は熱いと思い、火傷したと言って学芸員室までクレームをつけにいったそうです。心理学でよく、冷たい火鉢も「熱いぞ、熱いぞ」と暗示をかけていたら火傷するという話がありますよね。それと同じ現象だったようです。
それでは、私たちはこの事実を危ないというのだろうか。危ないと感じるだろうか。僕は、それが危ないか危なくないかということではなく興味を覚えました。これはたんに僕たちの作品に限らず、自分たちがものにどのように対するのかという対し方の問題だと思うんですね。日本語では「味をみる」とか「湯加減をみる」とかいいますよね。皆さん当然、それが「見る」ということではないと知っていながら、言葉としては同意しているわけです。人間の感覚というのは、さわるかさわらないかというデジタルなオン・オフの関係ではなく、もう少し自身のなかで決定していく事項が多いのではないかと思います。これが僕の、質問に対する答えです。

司会 ── この展覧会に関しては、さわるということが危険を伴うことになったり、メカニックな作品のシステム自体を壊す可能性をもっていたと思います。ただ美術作品によっては、触覚感を大切にする作品もありますね。作家がさわるということを大事にしながらつくっているのにも関わらず、観客に「作品にさわらないでください」と書かざるをえない状況がある。保科さんなどは比較的、触感を大切にして作品を制作されているように感じるのですが、観客がさわることに対してどのようにお考えですか。

保科 豊巳 ── 僕の場合、一度作品が全部壊れたことがありました。しかし、それによって違ったものが見えてきたのです。だから、さわって何かが起こることも観客にある程度まかせていくという柔軟な態度で考えてはいるのですが、ケース・バイ・ケースですね。複雑な心境がありますが、芸術にしても空間にしても場にしても、何かを捕捉するというか、つかもうとしたときには、必ずどこかから漏れていくものがあって、それを引き受けていくのもひとつのやり方だと思っています。

千崎 千恵夫 ── 私は絵画を見ることから出発し、それをいかに解放していくのか、という仕事(制作)をやっていました。そこからインスタレーションに展開していったのです。私のインスタレーションは、視覚だけではなくて五感に訴え、見る側の主体性を喚起する場をつくる試みです。だから私は、観客がさわっても気にしません。しかし先ほどの話のように、テクノロジーを使った作品にはたしかに制限があると思います。私もビデオなどテクノロジーを使いますが、さわるかさわらないかという問題よりも、テクノロジーがいかに感性を解放していくのか、いかに制度という枠を超えて自己を解放していくのかのほうに興味をもっています。

安藤 ── 最初に浜田さんがおっしゃったように、さわる・さわらないが問題ではないと思っています。むしろ観客を作品がどのように受け入れているかという関係が重要なのです。その関係には人によって様々なレベルがあって、僕らのように「椅子に座ってください、モニターにふれてください」といいながら、ある面では恐いと感じさせ部屋に入りづらくしている場合もあります。しかし、これは障害を設け、それでもなおふれてくださいという関わりあいを欲しているからです。ヘスさんの作品のように、人の体の動きを自然に受け入れていくような関わり方もあるでしょう。フース・クンラーツさんの作品などは、凸凹の形になっていて、ひとつの作品を見たらもうひとつの作品へ自然と体が動いていく、そのような関わり方を要求するものだと思います。きっと佐藤時啓さんの作品も同じでしょう。そのような視点で見ていけばよいのではないでしょうか。

パンハウゼン ── 私は日本を訪れ、環境に対するアプローチの仕方に特有なものを感じました。ヨーロッパの観客とは異なったとらえ方をしていると思います。たとえば、私の家の向かいには電話ボックスがあるのですが、一週間に一度は壊されています。ヘスさんの作品は、非常に壊れやすい。そのはかない感覚というものが、アートのもつ魅力を感じさせると思います。

司会 ── 電話ボックスが週に一度壊されることは、日本ではほとんどありませんね。壊れるとか、壊してはいけないという制度や倫理観なども、こういった話から考えていけると思います。この展覧会のテーマである「根の回復」、いいかえれば身体感覚の回復というものを掲げていながら「さわらないでください」と書いてあるのは、考えてみれば不思議なことですね。しかし、我々は、さわるということのみが身体の感覚と思いがちなのではないでしょうか。環境に対する関わり方という話がでましたが、たんに触覚だけではなく五感を使いながら作品にふれていくほうが大切なんだと思います。たとえば先ほど浜田さんが言われたように、松枝さんの作品はさわろうと思ってもさわれませんね。それは何か意図されているのですか。

松枝 秀晴 ── 作家によっては、さらわれることをコンセプトのひとつにしている方もいます。僕もそれを若干考えないわけではありません。しかし、僕の場合は作品の一部に蛍光顔料のパウダーを使っているのですが、それを光る素材だと誤解され、さわられて形が予測以上に壊れてしまったことがありました。壊されていくことの意図が最初からあればよいのですが、自分の作品にどの程度、許容範囲をもてるかはすごく難しい問題で、ある程度ガードするためにロープを張ったり、カーテンで囲ったりしています。数年前、同じような作品をつくったときに椅子を壊され、蛍光顔料もどんどん崩されていって、自分のコンセプトから離れてしまったことがあります。予測をはるかに超えてしまうと、それは自分の作品ではなくなってくると考えています。
たとえば、1991年のベルギーでの展覧会のとき、野外に鉄の棒で貫通させて固定した椅子を置いたことがありました。そのときベルギーの展覧会主催者が「それは危ない。ベルギーは日本の状況とは違うので作品を壊されてしまう。それでもいいのですか」と言ったんです。ですから、僕はかなり頑丈に椅子をつなぎ合わせました。実際に誰かが夜中にきて、さわった形跡がありました。しかし、かなりガードをしていたので、会期終了まで椅子はそのままの状態で残っていました。作品にふれてかまわないと認識するのは作家です。僕は、会場にどんな観客が来るだろうか、展覧会の仕組みはどうなっているかを考え、状況によって作品をどのようにガードするか検討します。

浜田 ── 松枝さんに質問したいのですが、オランダ展(1995年「NowHere」)のときも蛍光塗料とブラックライトを使った作品でしたね。松枝さんは、作品にふれてもらっては困るというけれど、実際にはオランダでもさわられた形跡がありました。これは良いとか悪いとかの問題ではなくて、作品に使っている蛍光塗料という素材には、さわりたくなるという性格があって、観客は自分がさわったことで何か変化があると思ってしまうのではないでしょうか。それはあなたの意図を超えて、物なり素材なりが主張してしまうことだと思います。僕があなたの作品の部屋に入ったとき、たまたま漂白剤で洗ったズボンをはいていて、ディスコにいるときのように光ったんですね。作品が光るだけでなくて、自分も光ってしまう。なぜ光っているのかを考えてしまうので、動かないお皿があったときに散らかしてみたくなる。それは作品に対する思いというよりは、素材のもつ性格から誘発されているのではないかと思うのですが。

松枝 ── それは十分に認識しています。観客の側がどれだけ制御してくれるかにも関わってくると思うのです。僕はいつも作品を修理して元に戻そうとするのですが、果たして戻してよいものか、いつも考えてしまいます。自分の作品が観客を取り込んでいるわけですから。しかしそこで、こちらの思惑以上に作品が壊されること、たとえばお皿を持っていかれたり、テレビをさわったりということが起こってしまう。だから、僕はこれ以上さわってはいけないということを観客に強いらなければならない。僕の作品は観客にさわることを誘発するかもしれないけれど、できればさわってもらいたくない。でもさわられるかもしれないことを予測しながら作品をつくっています。

会場 C ── ここまでお話を聞いていて、さわろうがさわるまいが、どちらでもいいと思ってしまいました。作品を見たときにさわりたくなる人もいるし、さわらないというのを自分の当たり前の感情だと思っている人もいるので、それは観客個人の判断に任せるしかないと思います。ですから、違う質問をしてみたいのですが。
オランダの現代美術に対する関心度についておうかがいしたいと思います。日本では、このような展覧会をやってもあまり人がこなかったり、「わからない」といって終わってしまいがちなのですが、オランダではどのように社会で受け入れられているのでしょうか。私はズワニッケンさんの作品が非常によかったのですが。

ズワニッケン ── 作品をつくっているときは、人がどうかというのはあまり考えていません。作品の感想については人それぞれで、ニコニコ顔で見る人もいれば、そうでない人もいて半々くらいです。自分にとって一番大切なのは、社会に対して開かれていることなのです。

パンハウゼン ── アートの一般への影響力については、残念ながらオランダも日本とあまり変わらない状況だと思います。アーティストと社会との間に本当にリアルな関係性や対話を求めることは、非常に困難になってきています。とくに文化的な方向性は、マスメディアから多大な影響を受けていますし、また消費社会の影響も受けていると思います。そうした社会的状況のなかで、自分のおかれている位置をもう一度見つめ直してみたいと考えている人もいますが、そういう人がオランダには多くいて日本にはいないというわけではありません。
私たちは、自身のおかれている位置というものを再認識してもらいたいという意図から、最初にオランダ、そして日本で展覧会を開催したのです。オランダ展のタイトルは「NOW HERE/NO WHERE」というものだったのですが、そこに私たちが込めたメッセージは、変わりゆく現代社会のなかで、アートのおかれている位置をみすえ、そしてアートがどこへ行こうとしているのかを問いかけることでした。

会場 D ── 私は今回の展覧会が、美術館やギャラリーのような既存の展示空間ではなくて、小学校という空間でおこなわれたことに大変興味をもっております。なぜ、美術館やギャラリーではなくて、赤坂小学校でなければならなかったのか。各作家の方々にこの小学校という空間と自分の作品が、どのような関わりをもっているのかをおうかがいしたいと思います。

司会 ── まず、パンハウゼンさんに聞いてみましょう。

パンハウゼン ── 私の作品は、以前は理科室だったところに展示されています。作品を制作するにあたって、あの理科室でおこなわれていた授業をもう一度再生できないか、違った形で新たに提示できないかということを考えました。すべてのアーティストが、建物のもっている歴史と自分の作品との関係をなんらかの形で意識している思います。それは、アートというもの自体が、社会的・歴史的な大きな文脈と切り離せないものですし、日常生活と関わって存在しているものだからだと思います。

シンポジウムの録音記録より(カタログ未収録)

関連展覧会:
  • t06 日本・オランダ現代美術交流展 「NowHere」(オランダ展)
  • t08 日本・オランダ現代美術交流展 「根の回復として用意された〈12の環境〉」(日本展)


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